Mar 31, 2023 interview

前田哲監督が語る 極限まで削ぎ落としたセリフと芝居を生かすための工夫を重ねた映像で作り上げた 『ロストケア』

A A
SHARE

映画好きの少年が、映画監督になるまでの長い道のり

池ノ辺 監督はなぜ映画に関わるようになったんですか。

前田 僕らが小学生の頃、テレビでは「日曜洋画劇場」「ゴールデン洋画劇場」「水曜ロードショー」とあって、週の半分くらいは洋画を放送していました。ハリウッド映画を見て育った世代です。僕のヒーローはスティーブ・マックイーンでしたからね。その頃、唯一の映画好きの友達がいて、他の子たちはグラウンドで遊んでいるのに、彼と二人で前の晩に見た映画の真似をして教室で遊んでいました。「ロードショー」と「スクリーン」が愛読誌で毎月買ってもらっていたんですが、その頃、雑誌の「LIFE」が映画の記事だけを抜粋した「LIFE GOES TO THE MOVIES」という分厚い本が出版されて、それはお小遣いを貯めて自分で買いました。確か1万3千円くらいしたんですよ。「ロードショー」や「スクリーン」に出ているのはスターばかりでしたが、その「LIFE GOES TO THE MOVIES」には映画を作る裏方さんたちも載っていたんです。当時の僕には監督もプロデューサーも区別がつかなかったんですが、とにかく、そうした裏方になりたいということは当時から考えていました。

池ノ辺 小学生の頃から映画業界に入ろうと思っていたんですね。しかも、裏方で。

前田 それは自分の心に決めていました。

ただ、中学までは勉強ができたのもあって、高校は進学校に行っていい大学に行くつもりでいたんです。ところが中学3年生の時に失恋をして、そこから全く勉強をしなくなったんです。

池ノ辺 ご両親は驚いたんじゃないですか?

前田 うちの両親は、教育にうるさいということはなかったのでその点は大丈夫だったんですけど、ただ、勉強しなくなったので志望校に入れなかった。ランクを落として入った高校はつまらなくて外にランチを食べにいったり映画館に行ったりと、サボってばかりいました。

池ノ辺 その時に、撮影所に行ったりしたんですか?

前田 いえ。高校で進路指導の面談があって、その時に「前田は学校には向いていない、大学には行かないほうがいい」と言われて。それで東京の映画の専門学校に行くことにしたんです。そこでもあまり学校には行かず、東映の撮影所でセットばらしのアルバイトに行っていました。

池ノ辺 そこから映画の世界に入ったんですね。

前田 でも、そのバイトは単にセットをバラすだけですからね、作ることはしない。そこで「現場に入りたい」と、とにかくずっとアピールしていました。そうしたら大道具の棟梁の方がセット付きや美術助手の見習いとして撮影現場に入れてくれてくださり、そこで知り合った撮影助手の方からの紹介で、助監督の仕事に関わることができたんです。と言っても、映画ではなくてテレビの2時間もののドラマの撮影がほとんどでした。

池ノ辺 最初はドラマだったんですか。

前田 映画監督が2時間ドラマをやることもあって、映画の助監督チームの下について、そのまま次の作品『私をスキーに連れてって』(1987)に連れていってもらえたのが、映画の最初です。当時はまだ、映画とテレビとCMは分かれていて、スタッフの交流がほとんどなかった。それからは映画の助監督として何人もの監督のもとで作品に携わりました。いつかは監督にと思ってましたが、助監督から監督になるのが難しい時代になっていた。

当時、Vシネマブームがあって、そこで僕の上の先輩たちはみんな監督としてデビューしたんです。でも結局劇場公開される映画を作るまでにはなれなかった。1年後にはほとんどが業界を辞めていなくなりました。自分ももう監督として映画を撮るのは無理なのかもしれないと思い始めていました。ある時テレビを見ていたら、なんだこの映像! というドラマがあって、それが岩井俊二監督の「FRIED DRAGON FISH」。この人すごいな、天才だと思って。年齢は自分とはほとんど一緒だけれど、自分には逆立ちしてもこんな感性はない、と諦めかけていました。ただ先輩の助監督でVシネマデビューして、燦然と輝く唯一の星がありました。

池ノ辺 誰ですか?

前田 三池崇史監督です。それで、自分は三池さんみたいなウルトラスーパー助監督じゃなかったけれど、でも、まだ可能性はあるんじゃないか、もうちょっと頑張ろうと思うことができました。

ちょうどその頃、今でこそスタンダードですけど当時はそういう機会がなかったコマーシャル撮影の現場にも助監督が行くようになったんです。そこでCM業界の人たちと知り合ったのが大きかったですね。グリコのポッキーのCMから派生した映画『四姉妹物語』(95年、監督・本田昌広)のメイキングを手伝ったのが縁で、その後のポッキーの新シリーズCM「ポッキー坂恋物語」を映画化することになり、CMを演出していた相米慎二監督が、自分では撮らないで、自分の後輩で助監督としてやっていた村本天志、冨樫森、そしてなぜかCM会社から僕が推薦され、この3人が1話ずつ監督することになったんです。それが『ポッキー坂恋物語 かわいいひと』で、映画監督としてのデビューでした。

池ノ辺 そこから映画監督としてどんどん活躍されたんですね。

前田 いや、そうではなかったんです。僕も、助監督としてのキャリアがあるから、デビューすればオファーが来ると思っていたんですけど、全然来ない。助監督としての力量は認められて、助監督の仕事は断るくらい来てたんですけどね。企画書やシナリオをコツコツ書いたんですが、全然ダメでした。それでとにかくと撮ったのが、14歳の宮﨑あおいが出た『sWinG maN』(2000)と、ほとんど素人がキャストの『GLOW 僕らはここに…。』(2000)でした。両方とも1千万、2千万ほどの予算で撮ったとんでもなく自主映画的なものでしたけど、それが始まりです。