Mar 19, 2017 interview

戦友・富野由悠季と安彦良和、そして古川登志夫の駆け抜けた“ガンダム前夜”70年代アニメ史

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古川

先ほどお話に出た『勇者ライディーン』や、『無敵超人ザンボット3』『機動戦士ガンダム』などなど……70年代の人気ロボットアニメでは、多くの作品で安彦先生がキャラクターデザインを担当していらっしゃいますよね。この辺りのエピソードを教えていただけますか? 例えば、安彦先生が初めてキャラクターデザインを担当された『勇者ライディーン』ではどんな感じだったんでしょうか。

安彦

『勇者ライディーン』はダメ出しが多くて大変でしたね。今はキャラクターデザインというと、いろいろな分野のスペシャリストで分業化してやっていますが、当時は全部1人でやらないといけませんでしたから。なんせ、その頃は「メカデザイン」という区分けもなくて、それもキャラクターデザインの仕事だったんです。

それで仕方なくロボットのデザインも僕がやったんですが、当時、バンダイには村上克司さん(“超合金の生みの親”としても知られる玩具デザイナー)という、とてもうるさい人がいまして(笑)。しかもその人は絵も描けるもんだから、実際に描いて持ってくるんですよ。自分でやりゃあいいのに……と(笑)。結局、その後の『超電磁ロボ コン・バトラーV』(1976年)以降は、メーカー側が基本デザインをつくるようになるんですが、『勇者ライディーン』はとにかくNGが多かったという記憶しかありませんね。

古川

富野監督も苦労されていたようですね。

安彦

苦労なさってましたね。局に呼びつけられたり、しまいには首をすげ替えられちゃったりしてね(編集部注:富野由悠季監督は『勇者ライディーン』第26話で監督を降板)。いまでこそ巨匠扱いですけれども、当時は全然そんなことはなかった。これは本人も言っていることですが、当時は仕事が早いということで便利屋さん扱いなわけですよ。「コンテ千本斬り」なんて言っちゃってね。

ところで僕はアフレコの時の富野由悠季を知らないんだけど、収録現場ではどんな感じだったの? やっぱりけっこううるさいの?

古川

『無敵超人ザンボット3』『機動戦士ガンダム』の頃は、やっと声優として活動し始めたばかりだったので、厳しくダメ出ししていただきました。

富野監督の現場って、お芝居の稽古場のような空気感なんですよ。富野監督が副聴室から声優たちのいるブースに入ってこられて、椅子に座っている声優さんの前にかがみ込んで、その人の膝の上に肘を立てて、下から見上げるように「君ね、今やってもらったのはちょっと違うんだよね。どんな風にこの役を考えてるの?」って(笑)。

安彦

いつもそうなんですか?

古川

いつもではないんですが、そういうことがありましたね。あと、当時の富野監督って、派手な柄物の布に穴を開けて被って、ロープで真ん中を縛っただけのような、非常に斬新な格好をされていたんですよ。そんな監督さんは初めてだったので、ちょっと怖い感じもありましたね(笑)。

安彦

アフレコの時用のコスチュームだったんじゃないかな? 少なくともスタジオではそんな格好はしていませんでしたよ。

古川

あと、富野監督との思い出で忘れられないのは、「古川くんには表現者として足りない部分がある」とアドバイスされたことですね。具体的に何が足りないのかを訪ねたら、「タレント性が欠けている」と。それはものすごくショックでした。

安彦

それはどういう意味なの?

古川

引っ込み思案に見えるから、もっとぱあっと自分を出しなさいという意味だったのではないかと理解しています。確かに、当時の僕はスタジオの隅っこでじっとしていて、登場シーンが来たときだけマイクの前に出て喋るという感じでしたから。ちょっとシャイなところがあったんですよ。そこはもっと前に出て行かないとダメだろう、と。

安彦

声優道、ですかね。

古川

そうですね。その後、『うる星やつら』(1981年)あたりから、三枚目的なキャラクターもやるようになっていく中、イベントなどで自分をアピールした方が良いということは痛感しましたね。根が内向的だということは自覚していたので、本当に図星でした。今でも印象に残っています。

逆に安彦先生はいかがですか? 富野監督とのやりとりの中で記憶に残っていることっておありですか?