Mar 07, 2025 column

『ウィキッド ふたりの魔女』 シンシア・エリヴォとアリアナ・グランデによる魔女への道、飛翔せよと魔女は言った

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ハリウッドの本気のミュージカル映画の凄まじさよ。グリンダを演じるアリアナ・グランデは、全身を使って自身に向けられるカメラとダンスしているかのようだ。歌声の美しさだけでなく、ダンスのキレ、しなやかさで、次々と“ボディランゲージ”を発明していく姿に目が離せなくなる。指先、視線の動き、まつ毛の動きに至るまで、すべてがダンスとしてスクリーンに昇華されている。なによりエルファバを演じるシンシア・エリヴォとの歌唱的、演技的ハーモニーの素晴らしさ。かつて“ふたりの魔女”は、魔女になるためのインスピレーションを惜しみなく与えあっていた。

西の魔女の起源、悪の起源

悪であることは生まれつきのものなのか。それとも不特定多数の人間に悪であることを押し付けられるものなのか。小さな女の子が善い魔女”グリンダ(アリアナ・グランデ)に問いかける。「どうして悪が生まれるの?」グリンダは、よい質問だが、それは多くの人を混乱させるでしょうと答える。1939年に米国で公開された『オズの魔法使』でマーガレット・ハミルトンが演じた西の悪い魔女。黒い帽子と鋭い爪、尖った鼻。ほうきに乗った緑色の肌をした魔女のイメージは、スクリーンに登場以来、多くの人が抱く魔女のイメージとして人々を怖がらせ、悪夢となり、同時に愛されてきた。『ウィキッド ふたりの魔女』は、“悪”が生まれる起源へと向かっていく。

本作は“悪い魔女”エルファバ(シンシア・エリヴォ)の黒い帽子のショットから始まる。廃墟の水たまりに浸る魔女の帽子。空飛ぶ猿たちの飛翔。カメラは猿たちを追いかけ飛翔する。渓谷を超え、オズの上空を飛ぶ。この冒頭シーンにはティム・バートン監督によるダーク・ファンタジーが始まるようなワクワク感がある。そのときほんの数秒、黄色いレンガ路をのどかに歩く妖精のようなグループの後ろ姿が映り込む。『オズの魔法使』の少女ドロシーとかかし、ブリキの木こり、ライオンである。

ダーク・ファンタジーの様相が打って変わり、映画はチューリップ畑を走り抜ける子供たちの無邪気なイメージに転換する。子供たちは西の魔女が死んだという報せを運ぶ。マンチキン国では「西の魔女は死んだ」と大勢の人たちが祭りのように騒ぎ始める。ピンクのバブルに包まれたグリンダが空から舞い降りる。悪を悼む者はいない、悪は一人ぼっちで泣く。「No One Mourns The Wicked」が狂騒的に歌われる。悪なるものを排除することが過剰に強調されるこの祝祭、楽曲は、どこかファシズムのような危険な雰囲気すら感じさせるものだ。『ウィキッド ふたりの魔女』は、ダーク・ファンタジーから“善良な”ファンタジーへ急転換していくこの冒頭数分のシーンだけで、善と悪がコインの裏表の関係、合わせ鏡のような関係にあることを伝えている。小さな女の子から悪が生まれる理由について問われたグリンダは、どんなに邪悪な魔女にも子供時代があると答える。映画はエルファバの幼少時代を回想するシーンへと向かう。人々から邪悪と謳われることになる『オズの魔法使』の緑色の魔女の生い立ちが描かれる。

『オズの魔法使』という映画自体が、グリンダとエルファバのようにファンタジーとダーク・ファンタジーの両面を併せ持っており、それは今日に至るまで様々な映画のインスピレーションになってきた。近年ではグレタ・ガーウィグ監督の『バービー』(2023)やデイミアン・チャゼル監督の『バビロン』(2022)。または『Pearl パール』(2022)のようなホラー映画に至るまで枚挙にいとまがない。たとえばデヴィッド・リンチのような映画作家が“アメリカ映像史の悪夢”として『オズの魔法使』を偏愛していることが、この古典の途方もない豊かさを示している。