Sep 10, 2020 column

12: 盟友 水口哲也との出会いから、ドリームキャストの誕生と敗退まで

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セガ本社ではコンシューマー開発のダブルトップのポジションにつきますが、ソニー出身でしかも米国から来た私に対しては、当然の事ながらかなり風当たりが強かったのです。それでも当時のセガは、副社長の入交昭一郎さんや現場のトップであった(故)広瀬禎彦さんを中心に、みんなでアイデアを積み重ねて進める文化がありました。深夜に及ぶ議論は当たり前、外部からも多くの人を招いて様々な議論を交わしました。

既にお亡くなりになりましたが、『Dの食卓』のワープ飯野賢治さん、『シーマン』のオープンブック斎藤由多加さん、MITメディアラボの元所長の伊藤穣一さんなどが参加され、技術的な視点やクリエイティブ視点など、多方向から議論を重ねました。その様な刺激をうけて、業界初インターネットにつなげて遊べる次世代ゲーム機ドリームキャストの原型ができあがっていったのです。

それらの議論に加わりながら、私は編成準備室という部隊をつくったのです。その部隊ではプロデューサー制をひき、ソニーのプレイステーション2(PS2)に対抗するゲームラインアップをつくる仕組みや編成作業を進めていきました。。

併せてアーケード部隊からコンシューマー部隊へと水口哲也に異動してもらい、今までセガにはなかった恰好良くて垢ぬけたゲーム( 『スペースチャンネル5』や『Rez』など )を彼のチームに開発してもらったり、(当時イギリスで作られていた)『ソニック』を復活させるために、中裕司さんのチームに『ソニック』の開発を進めてもらえるよう説得したりと、米国でのプレイステーションのローンチの時とは少し違った形の濃い時間を過ごしました。

当時のセガは、米国でのアーケードとビデオゲーム双方の大ヒットで会社を大きくした社長の中山隼雄さんに、元ホンダのプリンスで副社長の入交さん、そしてセガがサターンで資金状況が悪くなった為に資金を投入しマネジメントにかかわる決心をしたCSK創立者で投資家の大川功さんが会長として加わり、とても重厚な経営体制でした。

特に旦那気質のある大川さんの周りには、経営者やいろんな癖のある方々が集まります。のちに湯川専務を使った広告などでドリームキャストの話題を作った秋元康さんもその一人ですし、今でも活躍されている壮々たる経営者たちが、当時は金策を含めた相談をしに、よく大川さんのところに訪ねてこられていたものでした。現在のセガのオーナーである里見治会長もその一人であったのは有名な話です。

このように、セガは準備を重ねて命運をかけた勝負をソニーに対して挑みましたが、結果はご存じの通り。PS2が圧勝。ドリームキャストで敗退したセガは、破産の危機にまで立たされます。大川さんがお亡くなりになり、その個人の財産の寄付によってセガは何とかなるのはまだ少し後の話になります。

圧勝をおさめたPS2ですが、当初圧倒的に売れていたソフトは、なんとDVDパッケージだったのです。特に『マトリックス』は、PS2の発売時にDVD化されたこともあり、ベストセラーとなっていました。当時、PS2はDVDプレイヤーとしても圧倒的にコストパフォーマンスが良く、その流れも手伝ってDVDパッケージもPS2も爆発的に売れることになります。

一方、当時はまだモデムの時代だったため、大川会長の夢でもあったインターネットにつながる次世代ゲーム機ドリームキャストは、発想は非常に面白かったものの時期が早すぎました。そういう意味では、タイトルの勝負以前に、セガは負けてしまったとも言えます。

ちなみに、PS3はBD(ブルーレイ)プレイヤーとして大きなシャアを取ったことから、ソニーのAV会社としての知見やDNAもビジネスに役に立っていたとも言えます。現在はパッケージよりも配信サービスが台頭している時代でもあるので、そのようなハードウェアメーカーとしてのDNAが使いにくいことから、今後はソニーがどのような戦いを挑むのか興味深いところです。

会社の命運をかけたドリームキャストの敗退のあと、大川会長が危篤になり、セガの体制はいよいよ変わることになり、傭兵的な立場であった私も、前々から声をかけてくれていたディズニーへの転職を決断することになります。

通算でたった4年しかいなかったセガでは、週末もなく、寝る間も削った日々もビジネス戦略の考え方や様々なビジネスの人材の観察、多くの才能あるクリエイターと作品を作り交流したことは私が見たかった景色の一つとして深く心に刻まれることになりました。

Entertainment Business Strategist
エンタメ・ストラテジスト
内海州史

内海州史

1986年ソニー㈱入社、本社の総合企画室に配属。その後、社内留学制度でWhartonでMBA取得。ソニー・コンピューエンタテインメントの設立、プレイステーションのアメリカビジネスの立上げに深く携わる。その後、セガ取締役シニア・バイス・プレジデントに就任し、ドリームキャストの立上げを経験。ディズニーのゲーム部門のアジア・日本代表時に日本発のディズニーゲーム作品『キングダムハーツ』の大ヒットに深くかかわる。2003年にクリエイターの水口哲也氏と共にキューエンタテインメントを設立し、CEO就任。ビデオゲーム、PCやモバイルゲームにて多くのヒットを輩出。2013年ワーナーミュージックジャパンの代表取締役社長に就任し、デジタル化と音楽事務所設立を推進。2016年にサイバード社の代表取締役社長に就任。現在株式会社セガの取締役CSO、ジャパンアジアスタジオ統括本部本部長。