Sep 10, 2020 column

12: 盟友 水口哲也との出会いから、ドリームキャストの誕生と敗退まで

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業界のプロフェッショナルに、様々な視点でエンターテインメント分野の話を語っていただく本企画。日本のゲーム・エンターテインメント黎明期から活躍し現在も最前線で業務に携わる、エンタメ・ストラテジストの内海州史が、ゲーム業界を中心とする、デジタル・エンターテインメント業界の歴史や業界最新トレンドの話を語ります。

11 「エンターテインメント業界を襲う5つのメガフォース ー業界競合の5つのBig Trend(3) 」はこちら

ソニー株式会社からソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ、ソニー・コンピュータエンタテインメントアメリカへと異動した話を以前書きましたが、プレイステーションのローンチが成功し、会社自体も新しいマネジメント体制が出来あがり、ビジネスがようやく軌道に乗ってきた時に私はセガ・オブ・アメリカ(SOA)に開発担当のVice President として転職したのです。当時、セガからソニーに転職する人は数多くいたものの、その逆は私だけだったので、セガでは非常に注目を浴びました。

セガの米国開発部門が弱くなっているので強化してほしいという依頼を受けて入社したものの、実態はそれどころの問題ではありませんでした。セガサターン(SEGA SATURN)のビジネスが思っていた以上に会社の業績にダメージを与えていたのです。

さらに、SOAのマネジメントの考え方が大きく変化しており、キャッシュを手に入れるために当時その片鱗を見せ始めたネットバブルを見越して新設会社を作り、その会社に開発部隊の一部移してしまっていたのです。それ故、私がジョインした段階で開発部隊はゲームを作れる体制として成り立っておらず、かなりひどい状態になっていました。したがって、私が入社後に最初にした仕事は、事業を立て直すために開発部隊の約75%の人員を削減するリストラだったのです。

当時まだ35歳で、希望に燃えて転職した最初の仕事が、まさかリストラになるとは思いもよりませんでした。しかし、さすがアメリカ。リストラのためのコンサルティング会社があり、どのような伝え方でリストラを進めるのかなどをアドバイスしてくれました。

ただ、当時は米国人もリストラに慣れておらず、100人以上にリストラを宣告していくと、なかには文句を言う人、泣く人も出てくるのです。また、私自身もリストラをすることに慣れていないこともあって、気持ちを保つのが大変でした。また会社には車でいくものの、傷つけられたりしないように、当時は駐車する場所には気を使ったりしたものです。

しかし、アメリカはやっぱりすごいと思う出来事がありました。当時オフィスがシリコンバレーにあったため、リストラにあった元社員たちの多くがこの後に急成長していく様々なネット企業に勤めることになったのです。当然、億万長者になった元スタッフも沢山いたと思います。こういう事がありうるために、アメリカではリストラ自体が日本のような悲惨なイメージではないのだと思います。

リストラを終え、セガがソニーともう一勝負するためにどういう開発が必要なのかを考えました。米国ではプラットフォーマーが絶対的に必要とするのがスポーツゲーム。そこで“セガスポーツ“ブランドを復活させるために、スポーツ系のゲームに強い開発スタジオを捜し、事業を進める計画を練っていました。

その計画に伴い2005年に“ビジュアルコンセプト”という開発スタジオを買収して、セガスポーツの2Kシリーズを立ち上げました。この開発会社は私が辞めた後に売却されてしまったのですが、この会社が作り上げたNBAの2Kシリーズというゲームは、業界トップの売り上げを誇っています。

そのような開発スタジオ買収の話を進めていた時に日本のセガ本社から一人の青年がふらっと米国オフィスを訪ねてきます。彼は、セガのクリエイターの一人で、名前は水口哲也といいました。ソニーからセガに転職してきたという私の話を聞き、様子を見に来たというのですが、日本で進めている次世代の新しいゲーム機の立ち上げに危機感を持っており、私にその新しいゲーム機の日本立ち上げメンバーに入らないかと誘いに来たというのです。

本当にそれだけで来たのか問い詰めたところ、実はそのあとに“バーニングマン(Burning Man)”という年1度秘密裏に砂漠で行われているクリエイターのイベントに行きたいからその口実に自分に会いに来たとのことでした。

今でこそ“バーニングマン”は数万人規模の巨大なパーティイベントとして有名になっていますが、今から20年以上前は“バーニングマン”を知っているのはそれこそ米国でも異常にとんがっているクリエイターかヒッピー位で、参加規模もせいぜい5000人弱というもので、まさか日本から来た青年がそのイベントの名前を口にするとは思ってもいませんでした。

実は、私もその年の“バーニングマン”に行ってみようか迷っていたこともあり、その話で盛り上がりました。結局、我々はそれぞれ別々に“バーニングマン”に参加したのですが、そんな変わった人材がセガ本社にいるという事を知り、日本で進んでいる次世代ゲーム機の立ち上げグループに興味をもったのです。

セガ本社で次世代ゲーム機でもう一度勝負をかけるということが正式決定したと聞き、私も日本のセガ本社に行くことを決意します。次世代ゲーム機の立ち上げが面白そうだという事と、やはり子会社では影響力が持てないと感じたからです。