Jun 20, 2020 column

03: ソニー・コンピュータエンタテインメントの設立

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数百億のリスクがあり、しかも関係する本部長や取締役もおらず、かつビジネスの体制まで判断してしまうということに、スタッフである私はとんでもなく驚きました。今から振り返っても極めて的確な判断ではあるのですが、その決断力と判断力は桁違いです。現在でもソニーの一番の売上と利益を上げているゲームビジネスの判断がその時に行われたのです。

後に、風邪で体調を崩されていた盛田さんの元に伺い、同じような報告を行うと最初は体調がわるくつらそうにしていた盛田さんの身体がどんどん前のめりになり、最後には久夛良木さんの手を握って「これはおもしろい。こういうビジネスを望んでいたんだ。頑張ってくれ」と励まされ、チームの士気はますます上がりました。

続けて盛田さんは「ただしプレイステーションという名前はもう少し考えたほうがいいな」ともいわれました。しばらくして、盛田さんは突然の発作で倒れ、復帰ができなくなるのですが、もしあのままお元気でいたら、プレイステーションの名称は変わっていたかもしれません。

その後、ソニー本社の経営会議などを経て大賀さんが指示した通り、株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が設立されます。この新しい旗のもと、ソニーとソニーミュージック、そして外部の人材を集めて全く新しい文化のスタートがきられました。

事業計画は絵に描いた餅であるし、ハードの開発やサードパーティの開拓など、この後次々と難題が持ち上がります。しかし、SCEのメンバーは数々の問題を克服していき、プレイステーションは日本で素晴らしいローンチを果たします。

PlayStation (SCPH-5001)

ハードのすばらしさは勿論、当時成功には欠かせないナムコやスクエアなどの重要なサードパーティの獲得や、『パラッパラッパー』のような、音楽業界出身のクリエイターが開発する音楽要素をふんだんに盛り込んだタイトルなど、ソフト業界の言葉を理解するソニーミュージック出身の人材が力を発揮されていきます。

さらに、斬新なプロモーションと広告で時代を作ったプロモーション部隊はソニーグループにはない全く新しい文化でいろんな背景をもつ人材が集まっていました。「行くぜ100万台」などとキーフレーズを生み出したマーケティングキャンペーンを覚えている方も多いと思います。

残念ながら、私は日本でのプレイステーションのローンチには現場として立ち会えていません。なぜなら、私はSCE設立と時を同じくして米国に赴任となり、米国でプレイステーションを立ち上げる現場に飛び込んでいたからです。

わずか3人で、ソニーミュージックの机を一つ借りて始まったSony Computer Entertainment America Inc.(SCEA)の話もなかなかおもしろいのですが、この話は次回ご紹介できればと思います。

ゲーム業界は、日本がかなり影響力を持ち、世界に大きなインパクトを与え続けていきました。それは音楽や映画とは少し違った立ち位置です。プレイステーションローンチ当時は、まさに日本がハードもソフトも中心にいたと言っても過言ではありません。

E3というゲーム業界最大のイベントは、プレイステーションのローンチ翌年から始まりますが、それまでは年初にCESの一角でゲームの発表がされているような状況でした。さらに言えば、グローバルビジネスでのゲームイベントの中心は、E3が始まってからもしばらく東京ゲームショウだったのです。

初代プレイステーション(PS1)から25年を経て、さらには任天堂のファミコンなどゲーム業界をさかのぼると40年経つゲーム業界は、その形を変えて進化しながらいくつもの中心点をつくり成長してきました。

本コラムの冒頭で紹介したように、2020年は本来であれば、プレイステーション5(PS5)の動向とともに任天堂やマイクロソフト、さらにはGAFA、BAT(中国)、PCプラットフォーマー(スティーム他)などが次の覇権をめぐりとてもアクティブな年になるはずでした。

しかし、この長引く新型コロナウイルス騒動の影響を少なからず受けることが予想されますが、この機会に皆さんもいろんなゲームを楽しみながら、ゲーム業界の次の新しいゲームの世界の始まりを予想するのも楽しんでみてはいかがでしょうか。

04「 ウォズニアックとの出会い 」

Entertainment Business Strategist
エンタメ・ストラテジスト
内海州史

内海州史

1986年ソニー㈱入社、本社の総合企画室に配属。その後、社内留学制度でWhartonでMBA取得。ソニー・コンピューエンタテインメントの設立、プレイステーションのアメリカビジネスの立上げに深く携わる。その後、セガ取締役シニア・バイス・プレジデントに就任し、ドリームキャストの立上げを経験。ディズニーのゲーム部門のアジア・日本代表時に日本発のディズニーゲーム作品『キングダムハーツ』の大ヒットに深くかかわる。2003年にクリエイターの水口哲也氏と共にキューエンタテインメントを設立し、CEO就任。ビデオゲーム、PCやモバイルゲームにて多くのヒットを輩出。2013年ワーナーミュージックジャパンの代表取締役社長に就任し、デジタル化と音楽事務所設立を推進。2016年にサイバード社の代表取締役社長に就任。現在株式会社セガの取締役CSO、ジャパンアジアスタジオ統括本部本部長。