久夛良木さんは任天堂と破談した時から、ソニーで何とかゲームプラットフォーム事業を行いたいと考えていたようでしたが、当時のソニーにはゲーム事業に対する強みは表面上何もありません。技術、流通、ソフト(サードパーティ)との関係、ビジネスモデルなど何もないのです。
ただ、ゲームプラットフォームはデジタル技術の進化とともに音と映像などの表現能力が大幅に上がってゆき、その変化の流れの中にビジネスチャンスがあるのかもしれないということはゲーム業界の素人の私でも理解はできました。
余談ですがプレイステーションという名称について。当時のプロジェクトネームはPSXといいました。最終的にプレイステーションという名称となりましたが、この名称は任天堂との協業事業でも使われていたのです。当時、ソニーは企業向けのPCをワークステーションと呼んでおり、企業の”ワーク”に対して家庭の”プレイ”で、プレイステーション。当時からすでにコンピューターがリビングでの接点になるというコンセプトを持っていました。
マネジメント向けの資料を用意している段階で久夛良木さんは、「プレイステーションは進化してゆき、その際の競合は任天堂やセガではなく(当時まだゲームビジネスに参入していなかった)マイクロソフトになる」と言っており、私も実際そういう内容を盛り込んだ資料を作成しました。
その時から既に久夛良木さんは次世代機のビジョンを既に持っていたようです。
当時、久多良さんや私を含む関係者達は、ほとんど何もゲーム業界についての知見がありませんでした。しかしながら、久夛良木さん達ハードウェア部隊は次世代にふさわしいハードの開発や設計を考えながら、ソフトウェアのパートナーとなるサードパーティが参加しやすい仕組み作りを進めます。そして、丸山さんを中心とするソフトウェア部隊はサードパーティへの営業部隊や任天堂の(初心会という)ゲーム問屋制度に対抗する仕組み作りを検討していました。
そんな中、ビジネスの数字と共にハードとソフトの両面からソニーがゲーム業界でプラットフォーマーとしてどの様にしてビジネスを成り立たせられるか、というトップへの提案書を私がまとめることになりました。
私自身、今までは机上の作業が多かったのですがプレイステーションの提案書を作成するにあたっては、サードパーティにインタビューをしたり、久夛良木さんと一緒に(当時は競合と考えていた)セガへ提携の打診をしに行ったりと動き回り、実務に近く、深いところまで関わることになりました。
Entertainment Business Strategist
エンタメ・ストラテジスト
内海州史