Nov 18, 2017 column

『BEAT EMOTION』は、BOØWYに関わった全ての人に対する腹心からの謝意をあえて隠し通そうとした“暗喩としてのポップ・アルバム”である。

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=5th Album『BEAT EMOTION』(1986年11月リリース)=

人生の中で“他人に認めてもらうために勝ちに行く”というケースが、何度かある。進学するための受験や資格試験、就職活動、スポーツで言えば各種大会での優勝や記録達成が、そのケースに該当する。そして、勝ち負けがはっきりする最たる例は「数字」である。
試験での数字、試合での数字、個人技の数字が明らかになれば、(まずは)他人は認める(傾向に寄る)。

ひるがえって、音楽ライターとしての「勝ち」を数字によってつまびらかにする現場は、ほとんどない。せいぜい読者からの返信意見の高評価や、現代で言えば「いいね」の数が、その程度であろう。つまりは、IT革命により経年変化したかに見える現在にあってさえも、音楽ライターの「勝ち」が明確化する現場は、どこにもないのである。

BOØWYの記事を一生懸命書いていた1986年頃、“BOØWYライター5人衆”という集団があり、その一人であった水村達也氏から「佐伯くん、僕らは結局のところバンドやアーティストの“太鼓持ち”に過ぎないんだよ」と言われたことがあった。
僕は某詩人の箴言(しんげん)であるところの「評論は、その作品自体よりも崇高である」を引き合いに出し“太鼓持ち論”を論破した気になったけれど、今になってみれば、その太鼓持ち状況は、いささかも変わらないのであるから、何もムキになって水村氏に食ってかからなくてもよかったのかもしれない、とも思う。

(水村くん、otoCotoに“佐伯とは逆のBOØWY論”を書いてください!)。

さてそろそろ、読者諸氏から「もはや、佐伯の自己発露文章は要らないから、早く『BEAT EMOTION』のことを書け」と、見えない石の小粒群が飛んできそうな雰囲気であるけれども、もう少しお付き合いいただこう。

かつて僕が、まだ音楽誌『rockin’ on』に投稿していた大学生時代、“若手ライターの人気記事番付”というものがあった。1980年代の始めのことだ。
渋谷陽一氏を筆頭に、‘72年の創刊当時から魅力ある記事を執筆してきた先代たちが〜失礼ながら〜一種のロートルとして落着し、次代を担うライターを叱咤激励する意味で企画された、実にシビアで画期的な“関門”だった。

読者投票によって、毎号、若手ライターの記事は“数字としての人気”として確定していった。
その番付は1年ほど続いたと記憶しているが、僕の記事はほとんど毎号“最下位”だった。
無理もない。
今でもコラムを一つ書けば、カギカッコの使い方から自意識過剰の文体までをディスられるわけであり、若かりし頃からその個人的特色は、揶揄されるものではあっても、同調をいざなうものではずっとなかった。

しかしながら、“毎号ペケ”というのも屈辱的であったため、それまで〜実は今でも〜の自意識過剰の文章の進め方をいったん捨象し、判りやすい記事として照準を定めた(というか、定めざるを得なかった)。

具体的に何を書いたかと言えば、当時、人気がウナギ登りだったRCサクセションの名曲「多摩蘭坂」のリアル地点である“たまらん坂”が東京都国立市と国分寺市の境目にあることと、実際そこに新宿方面から甲州街道を走り、どこで右折しどこを道なりに行けばいいのかを具体的に記した、半ば“How to Reach”の記事であった。
Googleマップはおろか、○○ウォーカーというような情報雑誌もなかったゆえ、熱いRCのファンからとても感謝され、結果、人気記事のトップになった。
他人に認めてもらうために勝ちに行くために、はっきりしたニーズに応えることを射程に入れたとても冷静な記事だったとは思うが、個人的なポエティックなカタルシスは、まるでなかった。
それは、自明の理である。

マジョリティを獲得することと生業になることとは、ポップ・ミュージックの場合、ほぼ不可分な同義語のようなものだと思う。つまり、瞬間風速的なものであれ何であれ、チャートNo.1作品を産み出すことは、大衆音楽として絶対的命題であり、そこに生半可な自己発露は必要がない。

『JUST A HERO』を制作したBOØWYは、自分たちのロックにおけるアートフォームな完成点をすでに見出していた。したがって残っているものは何かと問えば〜仮にそれが幻想であっても〜ポップ・ミュージックとしての頂上であるNo.1アルバムを世に送り出すことだったのである。

『BEAT EMOTION』はツアーの合間を縫い、1ヶ月を要せぬ短い期間でレコーディングされた。アルバム・インタビューの際「今回は、産地直送みたいな作品ですね」と僕が質問すると、氷室京介さんから「俺たちは、八百屋じゃねーんだぞ」と返答があったことを、よく憶えている。