ケネス・ブラナーとエルキュール・ポアロの前進
『オリエント急行殺人事件』から『ナイル殺人事件』、そして『名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊』へ。ケネス・ブラナー版『ポアロ』シリーズは、実力に申し分ないキャストを揃えつつ、あくまでも主人公エルキュール・ポアロの物語を貫徹してきた。少なくないミステリのシリーズが、毎回の事件関係者と彼/彼女らを演じる役者に焦点を当てるのに対し、本シリーズはどこまでもポアロとブラナーが主役だ。『ヘンリー5世』(1988年)以来、ブラナーが監督・出演を兼ねる映画が常にそうだったように。
今回の『名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊』は、前作『ナイル殺人事件』で探偵業を引退したポアロの“その後”を描く筋立てだ。『ナイル殺人事件』ではポアロが戦争に従軍した過去、そこで心身に受けた深い傷が明かされたが、今回、ポアロの物語はさらにその先へ前進する。
先に触れたように、「ハロウィーン・パーティー」に“幽霊”や“亡霊”というキーワードを織り込み、新たに語り直した本作は、同時にこの物語を“ポアロと幽霊”のストーリーとしても仕立てている。霊を信じないポアロに思わぬ怪異が襲いかかる展開では、彼の信念と超常現象が真っ向から対立。クリスティーの短編小説「最後の降霊会」も参照しながら、ブラナー&グリーンはクリスティーの世界における霊の存在を探求した。
また、“亡霊”とは必ずしも死者を指すわけではない。同じく従軍の過去を持ち、戦争のトラウマに苦しむ医師フェリエと対面するとき、ポアロは自らの過去という“亡霊”を否応なく思い出すのだ。フェリエ以外にも、男性の登場人物にはどこかポアロに似た一面があり、それらはポアロにとって鏡のように機能する。そのときには、ポアロに取り憑いている“亡霊”が――それが文字通りの意味かどうかは別にして――必然的にあぶり出されることになる。
したがって今回のポアロは、過去2作よりも精神的に激しく追い詰められる。『オリエント急行殺人事件』でオーソドックスな群像ミステリを、『ナイル殺人事件』で得意のシェイクスピア劇を思わせる欲望のメロドラマを描いたブラナーは、本作でサイコ・スリラー&サイコ・ホラーに挑んだ。理性を超える超常現象や主人公の精神的不調といった要素は、彼が初めて手がけたミステリ映画『愛と死の間で』(1991年)にも通じており、原点回帰ともいうべき趣となっている。
強いて言えば、初挑戦となったホラー演出ではいささかジャンプスケア(突然の大音量演出)に頼りすぎたきらいもあり、持ち味である丁寧でロジカルな演出の興を削いだところもあるが、全体的には職人監督らしい堅実さも健在。『ジョーカー』(2019年)や『TAR/ター』(2022年)の音楽家ヒドゥル・グドナドッティルの初起用はとりわけ効果的で、気心知れた撮影監督ハリス・ザンバーラウコスによるリッチだが不穏な画づくりも作品を支えた。
そしてケネス・ブラナー映画といえば、なによりも俳優陣のアンサンブルが見どころ。シリーズの過去2作でも役者全員に見せ場を与え、魅力をじっくりと引き出したが、今回の最注目は、ブラナーの半自伝的映画『ベルファスト』(2021年)で親子役を演じたジェイミー・ドーナン&ジュード・ヒル。本作でも再び父と子を演じたが、ジュードがまったく異なる芝居で観客を惹きつけるばかりか、2人の息の合った芝居には傑出したものがある。ドーナン&ヒルがキャスティングされた理由は、映画のラストできっと自ずから理解できることだろう。
文/稲垣貴俊
一線を退き、ベネチアで流浪の日々を送るポアロは、朽ち果てた大邸宅で行われる降霊会にいやいやながら参加することに。そこで来賓の1人が殺害され、ポアロは影と秘密をはらんだ邪悪な世界へと足を踏み入れてしまう。
監督:ケネス・ブラナー
出演:ケネス・ブラナー、ミシェル・ヨー、ティナ・フェイ、ジェイミー・ドーナンほか
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
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