Sep 19, 2020 column

『日本沈没2020』テーマに主語を付けたことで見えるもの

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原作は小松左京が73年に発表した長編SF小説。大ブームとなった本作は幾度と映画化、ドラマ化、ラジオドラマ化などがされ、今回初のアニメ化となった。原作はもともと日本という国土を失って世界に散らばり流浪の民となった日本人を描き、そこから「日本とは、日本人とは何か」というテーマに迫ろうとした。その舞台を作るための前段階として国土を失うセンテンスを描いたのがあの小説であるのは有名な話だ。

その国土が沈んでいく中で登場人物ら、そして読者は「日本とは何か」「自分も含めた日本人とは何か」を考えることとなる。小説が発表され映画版が公開された73年と言えば高度成長期を経て国全体が著しく様変わりし近代化を成していたが、その高度成長期も終わりオイルショックなどから社会に新たな不安の種が芽生え始めていた頃になる。戦争の記憶も過去の物となってきたその時期に『日本沈没』は繁栄した国土と社会を再び焼け野原どころか喪失させるという大胆な物語を描くことで「日本とは何か」ということを問いかけた。繁栄に進んだ近代を逆行するかたちだ。

"JAPAN SINKS:2020"Project Partners

『2020』は政治家や学者を主人公とした原作や映画版とは異なり、一般市民を主人公にするという大胆な脚色がされている。政治家や科学者にとっての「日本とは何か」ではなく、僕らと同じ立場の人にとっての「日本とは何か」だ。大胆な脚色ゆえにエピソードは本作独自のものだが、そこには戦後から現在までの縮図や比喩がちりばめられている。災害の始まりの描写は多くの人が東日本大震災を思い出す。

主人公の少女・歩は生まれも育ちも日本だがフィリピン人の母とのハーフという、都市部ではすでに珍しくもない現代的な多様性を出自にもっている。特にこのことは大災害下で精神的に追い詰められた人々から「純粋な日本人ではない」という理由で排外の姿勢を向けられることもあるが、彼女の経験することの多くが民族主義という観点からだけではない「日本人とは何か」を客観視するための仕掛けともなっている。

作品についての批判ではこの「災害時に排外姿勢を掲げる日本人を描くとは不快」という反応を目にしたが、わずかこの10年ほどの災害においてもそういう時にそういう人らが出てくる現実を僕らはネットでさんざん目にしてきた。肯定すべき部分もそういった眉をしかめたくなる部分も、『2020』は原作の出た73年以後を縮図化している。

"JAPAN SINKS:2020"Project Partners

諸手を挙げて絶賛する気は無い。「なんでいきなりラップを歌うのか」などかなり意識的に設けられているツッコミどころや、縮図とするにはその要素や記号があまりにも膨大にもかかわらず「30分×10話」という尺は短すぎ、早い展開に見る者の頭で整理と解釈が追いつかない部分もある。SF畑の人からすれば別の部分もいろいろ言いたいことがあるだろう。こういったことが僕が感じ続けたモヤモヤの一因でもあったのだが、「縮図である」という全体像が見えてくるとものすごくシンプルにテーマを問いかけてきた作品であることがわかる。

別物のようにすら見える大きな脚色をしていながらもこれが「原作:小松左京『日本沈没』」であるのは、投げかけてくるテーマそのものは変更していない部分だ。最初から一貫して原作が問うたテーマを前提とし続ける。さらに主人公を政治から個人にしたことでこの「日本とは何か」「日本人とは何か」というテーマに主語を付け加えた。「“私にとって”日本とは何か・日本人とは何か」だ。少年少女を主人公にし主語を加えたことで本作では家族という存在や想い出というものも大きなウェイトをもつものとし回答(解答ではない)へ繋げていく。