目にした『泣きたい私は猫をかぶる』はあらゆる意味で期待通り。そして、良い意味で予想を裏切られた。大筋だけからは楽しいジュブナイルかと思っていた。しかしこのメンツが作る作品が“無難なジュブナイル”であるわけもなく、その大筋には父と再婚相手である新しい母との距離、自分を捨てた母への不信。それによってムゲに根付いてしまっている“幸せを感じることへの希薄さ”や、かぶっていた表面の下にどのような本心を隠しているのか?がドラマとなっている。メインのドラマだけではなく、ペットである猫と飼い主の関係や両者が共有できる時間の大切さなど多くの要素がちりばめられ、それらが物語に上手く組み込まれ繋がっていく。
青春ものというより思春期の心情に寄った物語。青春の手前にある中学生の“こじれかた”に向き合っている。親や新たな母に対しての感情、周囲への感情。それを曝け出せる部分と猫をかぶってごまかす部分。一方でおおっぴろげに突っ走れてしまう部分。中学生というまだ未成熟で多感で、それでいてエネルギッシュな心を、ムゲは身体の全てを使って表現する。舞台である常滑市の街並みは風景としても面白いが、坂の多さなど街にある上下が猫であるムゲの行動を縦横に拡げ、映像面でも“動き回る”ことを楽しませてくれる。
“こじれた主人公”といってもネガティブなわけではない。鬱屈した方向に転がっていく思春期ものが多い中、この作品はこのセンシティブなドラマをふまえつつも明るくファンタジックな冒険談として描ききっている。賢人への想いがムゲの行動を常に後押ししてゆく、あくまで一大ラブストーリーなのだ。アニメという表現を活かしているならではの描き方と力技だ。描くことが厄介なはずの中学生だからこその映画となっている。
“幸せを探す”のではない。“幸せを感じる”ことを気づかせてくれる。見終えた後に自分にとってそれは何であったか、いや、そもそもそういう経験があったのか。年齢を経て見失ってしまうそうなるが、とても基本的で大切な何かを思い返せさせてくれる。
映像の緻密さや広さ、見終えたときの爽快感と何とも言えない幸せな気分に「ああ、映画館で見たかったなあ」ともつくづく思わされてしまった。これが家でいつでも見られるというのもうれしいことだ。しかしそれでも「この作品を劇場で見たかった」という想いは変わらない。むしろ強くなった。もし叶うなら、状況が落ち着いたタイミングのどこかで劇場上映がされることがあれば良いなと願っている。
作品そのものについてを書いてきたが、最後に。製作側にとって苦渋の決断であったろう今回の公開変更はアニメビジネスにおいても新たな可能性の扉も開いた。マネタイズへの繋げ方などまだ暗中模索の部分も多いのだとは思うが、近年のアニメ市場におけるソフトパッケージ販売の伸び悩みや、海外展開を行っていく事への回答の1つであるのかもしれない。間違いなく今、この作品は日本のアニメのみならず映画産業全てにとって“これから先”を考えていくにあたっての最先端にある。
昨年はアニメ映画において話題作や注目作が立て続いたことがトピックとなったが、今年もまだそれが続いている。コロナ禍であってもそういった新たな作品が生み出されることも、それらとの出会いも止まることは無い。その意味でも、ちょっとした希望を感じさせてくれる作品だ。
文 / 岡野勇(オタク放送作家)