May 22, 2018 column

高畑監督の逝去に想う 去り逝く先人と未来を繋ぐ、僕らに課せられたアーカイブの責務

A A
SHARE

アーカイブの最もわかりやすい意義・理由としては「歴史の記録」だろう。だが、もっと現実的な理由もある。たとえば高畑監督作品の“日常の表現”はその後の多くのアニメ制作者に影響を与えた。訃報記事の中でも『この世界の片隅に』の片渕須直監督や『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督が、受けた影響や学んだことについて語られているのを幾度か目にした。実際にはもっと多くのアニメ制作者たちも大きな影響を受けている。その受け継がれた影響に個々の演出技術が混ざり合いアップデートをされ、それが“今”の作品となっており、そして“これから”の日本のアニメを生み出していく。 『ATAC』が手がける特撮については“作品”ではなく“技術”の記録保存だ。その文脈をひもとき考えることは研究面においても重要な意味を持つ。

映画でもアニメでもその他の分野でも、アーカイブはただ「古い物を大事に残しましょう」という意味や目的だけのものではない。「過去の記録の保存」「過去の作品の保存」というだけでもない。すでにこの世を去った先人たちの技術や手法を知り、そこで培われていた技術も含めたものの継承と、それを未来へ受け渡していく役割という意味もある。過去から未来への技術や価値の伝承手段そのものであり、いつか現れる将来の人材や作品を生み出すために重要なものなのだ。

文化や技術といったものは案外に脆い。気を緩めれば、多くの人が思っているよりもはるかにたやすくアッという間に失われてしまう。 なにより怖ろしいのは消失と散逸だ。少し前に手塚治虫の生原稿が海外のオークションに出たというニュースがあった。ナゼそんなことに?東宝の特撮映画『キングコング対ゴジラ』は別バージョン製作時にカットされた部分のネガフィルムが行方不明となり、近年に発見されるまで、長年にわたってオリジナル全長版の劇場上映は不可能な状況にあった。このような奇跡の発見がされればまだ幸いで、丸ごと行方知れずとなっている作品や資料は多い。 失われ、途絶えてしまった時に待っているのは作品と技術と文化の死だ。一部の映画、アニメ、ゲームやマンガ。それらが海外でも評価をされている中で、過去の遺産のみならず“未来”を守ることの意義は大きい。 だが、意義の重要性がわかっていても、そこにはあまりにも多くの難題が立ちはだかっているのが現状だ。

調査から復元、保存、運用といった作業それぞれに大きな労力と専門的な知識と技術、設備。そしてもちろん費用がかかるし、人材も人員も必要となる。日本最大の公的組織である国立映画アーカイブにしてもそれが潤沢ではないのが現状。アニメではProduction I.Gなど一部の大手制作会社が取り組みを開始しているが、「アーカイブにまで回せる余力がないよ…」というところも多い。文化庁の『デジタルアーカイブ事業』など、何をどのようにしていくのか?という話がようやく出始めたところで、多くの方々らが暗中模索の中で課題と向き合い取り組んでいる。マンガについても出版社単位であるとか、一部の作家個人であるとか、『明治大学 米沢嘉博記念図書館』など、私設組織の活動に委ねてしまっている。

アーカイブは必要でありながら、目や数字でわかりやすい経済活動とは異なる。経済原理を至上としてしまうとどうしても後回しにされたり軽視をされがちだ。なのに大きな費用はかかる。おそらく最大の難関がこれだ。海外でもアーカイブ活動の最大の壁であり悩みの種となっているのが費用で、英米仏などは国が予算も大きく付けているが、それでも足りていない。だが、社会理解のおかげもあり寄付によるサポートが支えとなっている。 現在、先進国の中でも日本の映画・アニメなどについてのアーカイブ事業はかなり遅れているとも言われている。多くの団体や企業によるアーカイブ活動がこの先を見据えて行くには、行政の支援はもちろん、社会の理解や協力が無ければ限界がある。