群馬(館林市が舞台)に住むマリは、“何か”をしたい、“ここではないどこか”に行きたいと思い続けている典型的な地方の高校生だ。だが結局それが“何”で“どこ”なのかがまるで見えていない。それでいて、学校をズル休みしてどこかに行ってみるということすらやれる度胸が無い。彼女はふとしたことから南極を目指している少女・小淵沢報瀬(こぶちざわ しらせ)に出会う。報瀬の母はかつて南極に観測隊として赴き、しかしそこで消息を絶った。亡骸すら帰ってこなかった母のたどりついた場所。その南極に自らも行きたいと願っている。 南極になんて、まして女子高生が行けるわけがない。誰もがそう思い、報瀬は学校で変人扱いをされている。だが報瀬の想いの強さをまのあたりにしたマリは自分も南極に行きたいと思うようになる。そここそが“何か”であり“ここではないどこか”なのではないか。 さらに、高校を中退しコンビニでアルバイトをしている日向が彼女たちに興味を持ち参加。さらに、南極へ行く手段をあがく中で出会ったアイドル・結月が加わる。
南極に行きたいというフィクションならではの目的。コミカルなやりとりや描写。それでもこの作品が青春物としてリアルな感情を見る側に伝えてくるのは、彼女たち個々の描き方だ。 現実世界では極地へ派遣されるような人たちには、かなりの精神力や専門性などがある。極地にしろ宇宙にしろ、そうでもなければ行けないのだろう。 だが彼女たちはただの女子高校生…どころか、むしろ人間的には短所ばかりが目立つような子たちだ。自分が何をしたいのかわからない。鈍感。敵がいないと何も出来ない。猪突猛進。周囲の目ばかりを気にしてしまう。友達がいない…。 けして特別なキャラクター設定や造形ではない。キャラクターと同世代の人たちはもちろんだが、大人であってもその頃の自分を振り返ったとき、多くの人が何らかしら自分自身に思いあたる部分がある。彼女たちが「南極へ行く」という動機と行動の中で向き合うこととなり、壁として立ちふさがるのは、他の何でもなく自分自身だ。その姿が気持ちよく、すがすがしい。
たとえば主人公のマリは鈍感だ。第5話、ついに南極へ向かうべく家を出た彼女に、幼なじみであり友人であるめぐみが思いがけない言葉を口にする。(それがなんであるのかは是非、作品を見ていただきたい) めぐみの後悔と自己嫌悪とマリへの想いと決意の全てが入っている言葉。視聴者を泣かせたこの第5話において、マリの鈍感さはめぐみに対してある大きな決意をさせる。だがマリの鈍感さが彼女にとてつもなく大きな救いともなる。 短所というのは人にとってマイナス要素なのだろうか?この作品が心地よく刺さってくるのは、それをイコールにしていないことにあるように思う。短所であることが長所ともなることを、とても丁寧に。そしてまっすぐに描いている。そのまっすぐさが視聴者に伝わってくる。 5話まで見たところで一度最初から見返したのだが、「ああ、このカットがあそこに繋がったのか」など、心情を丁寧に描くための仕掛けに気づかされ驚くことも多い。 もし短所が無く、自身のそれに気づけないようなキャラクターであったなら、彼女たちはこの壮大な冒険に踏み出すことは無かったのだろう。結局はそれぞれの短所が、彼女たちをまだ見ぬ“何か”へと向かわせていくことになる。その行動は時に周囲の人たちにも何かを気づかせたり動かしたりすることになるが、そんな作用を起こしてしまうほどの遠い場所に彼女たちは行こうとしているのだ。