『星を追う子ども』(11)は、それまでのファンから微妙な反応であったことは否めない作品だが、しかしあの作品で何を目指していたのか。そしてその結果がその後にどうなっていくのか。 個人的に驚いたのは映像の構成物(原画など)の展示よりも次作『言の葉の庭』(13)と『君の名は。』企画時に書かれた、コンセプトを記したペラ2枚ほどの企画書だった。『秒速5センチメートル』までが主に何を目指していたのか。『星を追う子ども』がどれだけ大きなターニングポイントになっていたのか。「『星を追う子ども』がナゼ多くの観客には求められなかったのか?」から、「では、何を観客は求めているのか」ということを考えて出てきた『言の葉の庭』。あの作品が徹底した戦略性で企画されていたことに驚いた。ある有名監督の現代社会観に対しては「自分は共感が難しい」と静かな批判性も記されており、ただ売れている物を模倣し追従するのでは無い姿勢も明確に打ち出している。
言葉は短いが、書かれている意味が読み取れると作品全てについて「新海誠はそれぞれの作品で何をやってきたのか」という制作テーマの線が引かれ、展示の最初から最後までに一気に物語性が生まれる。『秒速』までの制作体制の変遷と確立、映像技法のブラッシュアップ。そこでは主に作品のハードウェアともいえることへの試行錯誤が大きなウェイトを持っていた。一方で『星を追う子ども』以降は、どうしたら大多数の観客が“今”求めている物語・テーマの作品となるのか。それは何なのか。その中で自分が伝えたいこと・描きたいことはなんなのかという、ソフトウェアともいえる内面的な部分への取り組みが大きな課題となっている。 そしてその手応えが『君の名は。』に繋がっている。劇場で見たときに「新海監督がこれまでやってきたことと作品全ての節目であり集大成」と感じた作品であったが、実際にそうであったことが確信できた。『君の名は。』大ヒットの時に「売れる要素を狙いすぎている」とか「下の観客に合わせたからヒットした」などといった批判を目にするたび、僕は違和感しかなかった。それでヒットするなら誰も苦労しない。展示のキュレーションで引かれた線によって、違和感の正体や理由が「そんなことではなかった」ことが明確に見えてくる。(この企画書、図録にも載録されているのだが、虫眼鏡が無いと読めないサイズだったのがちょっと残念だ…。) 展示が生み出す物語性からは、新海誠監督の中にずっとある揺るがない軸(テーマ)は何であるのかが見えてくる。それが見えたときに、15年前に『ほしのこえ』を見て「あらすじと設定を読んだだけでも泣いた!」自分は、いったい何にそこまで感情を震わされたのかがようやくわかった気がする。
この『新海誠展』は、これまでに開催した地(あるいは会場)も新海作品とゆかりのある場所だ。6月に開催された静岡の「大岡信ことば館」は同地に本部をおく受験産業の『Z会』がスポンサーとなっている文学館。『Z会』は新海誠による短編CM作品『クロスロード』(14)の制作元である。9月からは長野県の小海町高原美術館で開催されたが、小海は新海誠監督の出身地だ。そして東京の会場である国立新美術館は前記のように劇中にも登場した、いわゆる聖地である。(なので、劇中映像同様の館内カフェが見下ろせる場所から写真を撮る来訪者が多いのなんの・・・。)
展示の最後には劇中での写真展を再現したスペースも設けられており、これは国立新美術館という“聖地”での開催ならではのオマケ要素だ。見終えて美術館からの近隣にも舞台となった場所がいくつかあるので、足をのばせば他にもちょっとした聖地巡礼が楽しめる。同館での開催は12月18日(月)まで。 なお、来年2018年には1月から札幌で、7月からは北九州での開催が予定されているので、以前からの新海誠ファンはもちろん、『君の名は。』で新海作品に初めて接した人にも、機会があればおすすめしたい。展示から何を読み取るか?によって、作品の見え方がこれまでとは違ったものになり、自分が感じた感動の正体がわかるかもしれない。
文 / 岡野勇(オタク放送作家)