Aug 11, 2017 column

夏のアニメ映画レビュー『カーズ/クロスロード』『メアリと魔女の花』

A A
SHARE

実際にジブリにおいて制作者であった米林監督らにとっての“ジブリっぽさ”というのは、僕ら観客が想像しているそれらとは、全く異なるものだろう。 それはなんなのか?そもそも継承とは何か?スクリーンで展開される冒険劇を見ながら、ずっとそのことが頭の片隅にあった。しかしその疑問には、この1作だけではまだわかりかねるというのが正直なところだ。(もちろん、作品そのものは明快であったのだが)

だが一端は見えたと思う。紐解く鍵は、この作品が『魔女の宅急便』と同様、魔女の女の子を主人公としたという部分にあるのかも知れない。描かれるストーリーもドラマも全く異なるが、しかしこの共通項は比較されることを覚悟しながら、あえて選んだ記号であり、題材。「魔女、ふたたび。」という、目にした者に『宅急便』を連想させかねないリスクのあるキャッチコピーを用いたのも、その覚悟の表明だろう

第一歩となる今作が、どのような印象を観客に与えるのかはかなり重要なものだろう。 見た人の反応は賛否が分かれている。その賛否のどちらの意見も僕は頷けるものがあり、個人的には良い賛否の分かれ方だと感じている。賛としては夏の娯楽映画としては十分に楽しめる作品であった。否としては、主人公の半径1mの外の世界観がよくわからないことで、僕も気になってしまった。ブラウン管テレビとテレビゲームはあるようなのだが、時代もよくわからないし、男の子の人物像もよくわからない。魔法学校には生徒が多くいる描写はあるがほとんど背景と同じだ。しかしこのへんの賛否は、その人が映画を見る際にどういった部分を見ているのかにも左右されるので、一概に良い悪いでもない。前記のように引っ掛かる部分もあったし粗いと感じた箇所もあった

しかしそれでも、僕がこの作品に惹かれた理由、面白かった理由、そして応援したくなる理由は、この作品自体が娯楽性は持ちつつ「技術のアーカイブ」をやろうとしていることだった。ジブリを構成していたもの、宮崎駿や高畑勲の作品にあったもの、それらにあった全ての”技術”をアーカイブしようとしている。その技術というのは作画だけでなく、演出、レイアウトをはじめストーリー作りや精神性に至るまで、ジブリのアニメ制作にあったあらゆることだ。

“作品”自体をアーカイブするなら比較的簡単だ。でも”技術”をアーカイブするということは全く異なる。それが”継承”ということの本質だろう。技術や文化はちょっと気を緩めればすぐに途絶えてしまう。だからこそ継承を続けていくことに意味がある。ポストの話は終わった。だが継承の話は終わっていない。この作品は日本のアニメが大きな変革の中で何を残していくのかという大きな一歩を踏み出している。

「『魔女の宅急便』でもこういう描写があったなあ」と感じた部分(表現や動きや映像の構成)などが“ジブリと宮崎駿を継承した部分”であり、「そうではない部分」こそが“米林監督とスタジオポノックが目指した独自の部分”なのだろう。同じ題材であるゆえに考えやすい。 だからこの作品は、米林監督や西村プロデューサーがジブリにいたままでは作れなかったのだとも思う。内部でやり続けるのであれば“継承”ではなく“継続”だ。継続はいつか途切れる。外に出たことで技術のアーカイブという継承を可能にしたのだと僕は思う。米林監督、西村プロデューサーが『メアリと魔女の花』で挑んだのはジブリのコピーを作ることでは無い。ジブリを継承しつつポノックの作品を作ることなのだ。 もちろん本作は、娯楽性に富んだファミリー向け作品としては王道ともいえる映画で、見ていて楽しめる作品であることは間違いがない。偶然に魔法の力を得た女の子が、世間から隠れている魔法使いの陰謀に巻き込まれる冒険ものだ。肩の力を抜いて休暇の時間を楽しめる作品であると思う。

こう考えたときに、この作品と先に記した『カーズ/クロスロード』が同時期に公開されていることには不思議なシンクロ感がある。「何を残すのか・伝えるのか」「何を受け継ぐのか」を、物語で描いた『カーズ』、作品の存在そのもので示した『メアリ』。偶然にもこの2作品はとても近いことに向き合っている。

中年になって仕事は慣れてきたし、社会ではあまりすることも無くなった? とんでもない。まだやらなくちゃならないことがある。この2本が背中を押してくれた気分だ。

文 / 岡野勇(オタク放送作家)