Mar 26, 2017 column

映画『ひるね姫』“モノづくり寓話”に隠された神山監督のメッセージとは?

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映画では、モノ作りの、それも日本のモノ作りを支えてきたものの記号で構成されている。ココネの夢世界(ハートランド)は優れた工業大国だ。その冒頭で語られる大きな産業は、24時間交代制で稼働し生産がされる最新型の自動車である。 この描写や理念に誰もがトヨタをはじめとした日本の自動車産業を連想する。まだ未完成の状態にもかかわらず披露試写会を行ったのが、トヨタのお膝元である豊田市の「とよたシネマフェスティバル」であったことに偶然以上のものを感じてしまう。(これは深読みしすぎかもしれないが) 2020東京オリンピックというのもキーワードだ。1964年の前・東京五輪はまさに高度成長期まっただなか。日本のモノ作り工業が世界に轟き始めた象徴たる時期だ。2020五輪に向けてもAC(公共広告機構)も「ライバルは、1964年」というコピーのCMを打っている。作中に登場する自動車メーカーの志島会長らの世代の技術者にとって、おそらく“五輪”はかつてのモノ作り日本が爆発した最盛期の記号でもあり、今再び求める再生への記号でもある。

だが、現実の現状はどうだろう。

自動車に代表される近代のモノ作りは日本を支えてきた。しかし、かつての「モノ作りの日本」を象徴した多くの産業は、どんどん元気を失っている。2020年東京オリンピックを、僕らはどの国製のTVで見ることになるのか?とすら思ってしまう。こうなると自動車産業だって、いつどうなるかわかったもんじゃない。低下した活力は人材の喪失や海外への流出ももたらしてしまっている。

別に自国礼賛であるとか、古きものを是とするわけではない。だからといって、最新のものばかりに代えれば良いわけでもない。合理性、便利さ、社会が望み必要とする技術。時代が変わり、社会が変わり、技術が進めば、そこには様々なコンフリクトが生じる。物理的にモノを作ることだけではなく、モノを作る人の意識においても同じだ。

『ひるね姫』では、最新技術の重要さや、そこには多くの人の想いが込められていると描く。一方で、旧来の技術や、技術に込められた想いを全て否定してしまうことの愚かさを、あくまでも子供であるココネの視点で展開していく。登場人物も先進的すぎるソフト技術者、従来の姿勢を大事にしたいと考える保守的なハード技術者。その対立がココネの人生に関わっていたことがわかってくるが、どちらが正しく、どちらが間違っているわけでもない。

夢の世界ではどこからかやってくる“鬼”に対し、従来のロボットでは刃が立たない。かといって新しいロボットというハードがあるだけでも、それは魂の無い器でしか無い。(こう考えたときに、“鬼”が象徴する物が何であるのかはわかるだろう)