オブジェの視線
ワインスタイン兄弟との想像を絶する悪夢のような体験を経て、不本意な形で制作された『ミミック』(97)において、二本のスプーンを使って独特なリズムを奏でる少年。『ミミック』のラストカットは少年のアップで終わるが、この孤独な少年の存在自体が説明のつかない不可解な存在として強い残像を刻んでいる。同じように『クロノス』のオーロラや『パンズ・ラビリンス』(06)のオフェリア(デル・トロ映画の少女たちに付けられた名前の寓話的象徴性!)は、大人の世界の不条理な出来事に巻き込まれた孤児のように世界と対峙する。彼ら彼女らによる「子供の視線」はデル・トロの映画に共通している。
映画界屈指の映画狂として知られるデル・トロは、『狩人の夜』(55)と『ミツバチのささやき』(73)を並べ、次のように語っている。「子供にとって有害な環境である大人の世界が描かれた崇高な絶望のおとぎ話。子供たちの心の中にある秘密の宝物は、傲慢な大人の世界の堕落から守られなければならない。この二つの作品は、あまりに美しく、あまりに暗く、畏敬の念で涙が出そうになる」。(出典:Criterion [Guillermo Del Toro’s Top 10])
では、『ナイトメア・アリー』における子供の視線とは何か。本作では、琥珀の瓶に詰められた胎児“エノク”が、怪物になっていくスタントンの過程を見つめている。死んでいる胎児に、そもそもの「視線」はないのかもしれない。だが、胎児に向き合う際に、スタントンは胎児による「第三の視線」をおそらく感じている。そこには生きている者による死者の「視線」の創造がある。琥珀の瓶に閉じ込められた胎児という物質が、生きたオブジェとして無言の語りを獲得する。物言わぬ胎児の視線は、物質的な世界と霊的な世界の境界を守る番人のように佇み続けている。デル・トロ映画の少年少女は、残酷な世界に晒される。しかし、子供たちの魂の透明性だけは永遠の「保管」を約束されている。しかしスタントンと同じように、エノクには呪われた過去がある。