ギレルモ・デル・トロの新作『ナイトメア・アリー』には、デル・トロの映画作家として歩んできた人生のイメージが濃密にシンクロしている。フランケンシュタイン博士が創造する怪物にひどく魅了されたデル・トロ少年は、やがて映画を撮ることによって怪物を創造していく。本作は、デル・トロ印の超自然的なクリーチャーの躍動を敢えて封印することで、デル・トロ本人も言うように、映画作家としての新たな更新の記録を刻んでいる。しかし、その手さばきは怪物を創造する手さばきと、まったく同じことに気付かされる。デル・トロは、一本の映画の中に様々なオブジェとそれに纏わる記憶を集合体として「縫い合わせる」。フランケンシュタイン博士がツギハギだらけで創造した怪物のように。
『ナイトメア・アリー』は、デル・トロがいかに怪物を創造してきたか、プロセスそのものが描かれた傑作といえよう。その体現者、あるいはデル・トロの分身としての主人公スタントン・カーライル。スタントンは生者のまま怪物化していく。本コラムでは、デル・トロによる「怪物の創り方」を探ってきたい。
創造の儀式
「幽霊とはなにか。過去からよみがえってくる苦悩の記憶か。たとえば激しい痛み。死者の中で生きているなにか。時の中にさまよう人間の思い。古い写真のように‥‥。琥珀の中の昆虫のように」 ―『デビルズ・バックボーン』
ギレルモ・デル・トロの『ナイトメア・アリー』は、デル・トロ映画の「作家の烙印」となっている超自然的なクリーチャーの存在を敢えて封印することで、光と影が支配するフィルムノワールの原理に立ち返る。国際映画祭において注目された長編デビュー作『クロノス』(93)以前に撮られた、恐るべき短編映画『Doña Lupe』(85)における「影の儀式」。この短編映画において、ベッドに横たわる初老の女性を覆った「影」は、表象の美しさを超え、デル・トロの「幽霊」に対する考え方さえをも示していた。デル・トロ映画の美術として度々用いられるセピア調のぼやけた写真や、蓄音機から漏れる掠れた音声のように、それは死してなお、何度も何度もこの世に生き返る存在であり、生き返る度に守護天使のように主人公を見守ることになる。無視することのできない痛みの歴史を抱えながら。
デル・トロの幽霊の定義において、『ナイトメア・アリー』は、クリーチャーが創造される前段階、そのプロセスを儀式として描いた作品といえるだろう。フランケンシュタイン博士によって創造された怪物を、「暴君的な父親の支配から逃れようとする10代の反逆者」(出典:イアン・ネイサン著『ギレルモ・デル・トロ モンスターと結ばれた男』/ フィルム・アート社)として捉えたデル・トロ少年による、怪物を創造する儀式への夢想。
本作の主人公スタントン・カーライル(ブラッドリー・クーパー)が父親からの「逃亡者」であり、霊を透視する=創造する仕事に就いているのは、デル・トロにとって、なんとも運命的なことだ。さらにスタントンのイメージには、父親の誘拐事件をきっかけに不本意な理由でメキシコの地を離れることになったデル・トロ自身の「故郷喪失者」の姿が重なっている。デル・トロは、少年や少女の視線を自身の分身であるかのように大切に掬い取ってきた映画作家だが、本作においてはスタントンと、怪物化していくスタントンを見つめる「第三の視線」こそがデル・トロの分身なのだろう。