Dec 30, 2022 column

2022年の最高傑作『ケイコ 目を澄ませて』には、光のなかに映画が凝縮されている

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年末になると、ベストテンの選出や映画賞の選考が増える。筆者もいくつか投票したが、2022年はすべて『ケイコ 目を澄ませて』をベストワンに推した。これほど〈映画〉であることを意識させられる極上の映画体験はめったに味わうことができないからだ。

本作に登場するプロボクサーのケイコ(岸井ゆきの)は聴覚障害があり、両耳が聴こえない。彼女の所属するジムの会長を演じる三浦友和が、劇中記者からのインタビューで答えているように、耳が聴こえないことは、ボクシングを行う上で「致命的」である。レフェリーの声も、セコンドからの指示も聞こえないのだから。そうなると、彼女がどのようにしてリングサイドからの声を理解するのかと言えば、いくつかのサインを決めており、それを瞬時に見ていると説明される。もっとも、そうしたボクシング映画の見せ場に出てきそうなサインをめぐるやり取りなどは本作では一切描かれない。では、『ケイコ 目を澄ませて』は何を描いているのか。

サイレント映画を思わせる多彩な対話形式

一見したところ、本作はこれまで無数に作られたボクシング映画や、聴覚障害者を描いた映画と大差ないようにも見える。主人公がひたむきにボクシングへ挑み、時にはくじけながらも、明るく生きていく姿が描かれると想像するだろう。実際、そのように本作を観ることも可能だし、これまで『友だちのパパが好き』『愛がなんだ』『空に住む』などで見せた愛くるしさが忘れがたい岸井ゆきのが、見違えるような凛々しさで、これが生涯の代表作になることを確信させる演技で登場することにも驚かされる。

だが、三宅唱監督が描こうとしたのは、ボクシングでもハンディキャップでもなく、前述のインタビュー場面で三浦友和が言う、「人間としての器量がある」ケイコを〈映画〉で描くことにあったのではないか。そのために、どのような映画技法を用いるべきかが検討され、極めて古典的な――というより、まるで130年にわたる映画の歴史をかけぬけていくかのような技法が選択されていることに驚きを味わうことになる。

ケイコと同居する弟の聖司(佐藤緋美)との最初のやり取りの場面で、聖司が負担する今月分の家賃が足りないことをケイコが詰る。このとき、2人は手話で会話をするが、黒い画面の中央に白文字が縦に配されて、会話が分かるようになっている。つまりはサイレント映画と同じ手法で台詞部分が提示される。

ここで唐突に、1909年生まれの映画評論家・淀川長治のエピソードを記しておきたい。1930年代、日本にもトーキー映画が到来し、映画は声を持つようになった。フィルムに音が同期して記録される機能を有したことで、サイレント映画の時代は終焉を迎えた。これは、カラー映画の誕生や3D映画の登場以上に、映画表現を根源から覆す大転換点である。その瞬間に淀川は立ち会ったのだ。トーキーを初めて目にした日(技術披露の断片的な映像集だったようだが)、この技術が劇映画に入ってくることはないと思ったと淀川は言う。というのも、1時間半なりの映画の上映中、始終、フィルムの中から音が出ては、映画の邪魔になると思ったからだ。

この感覚は、映画誕生から40年近くにわたってサイレント映画の時代が続き、その表現形式が円熟に達していたことを踏まえないとわかりにくいかもしれない。実際、サイレント映画時代末期の『メトロポリス』や『裁かるゝジャンヌ』を観れば一目瞭然だが、映画が音を所有していない不自由さなど微塵も感じさせず、目で見せることに徹した視覚表現が極限に到達した映画がそこにある。こうした作品を観た後に、トーキー初期の作品を観ると、音が出ることにかまけて、視覚描写が後退していることに気づかされる。その意味で『ケイコ 目を澄ませて』は、まるでサイレントとトーキーの端境期に撮られたかのような、声が出ることを自明としない作り方になっており、それが本作の映画らしさを強固なものにしている。

前述したように、冒頭近くでは手話をサイレント映画の字幕のように用いられていたが、この手法が使われ続けるわけではない。客室清掃員として働くケイコが勤務先の同僚と手話で会話を行う際は、映像と共に会話が字幕スーパーとして表示されるし、手話を解さない人物を前にすると、口元の動きを見ることでケイコは相手が何を言っているかを理解し(マスクのせいで口元が見えない今日的な弊害も取り入れられている)、あるいは小さなホワイトボードに書かれた文字を介して、コミュニケーションを取る。

多彩な対話の手段を持つケイコを見ていると、他の映画では、耳が聴こえるというだけで、いかに無造作に画一的に対話が撮られているかに気づくことになる。相手の顔を見なくとも、発声するだけで全てを伝えきれると思い込んだ傲慢な映画が何と多いことか。

本作の忘れがたい場面のひとつが、川沿いのカフェでケイコが友人たちと会話を愉しむ場面である。そこにいる全員が手話で会話していることから、ケイコの同級生であろうと想像がつくが、ここでは、しばしの対話中、その内容が字幕で提示されることはない。筆者を含めた手話を理解しない観客は、何を話しているか分からなまま見つめていなければならないが、全く退屈することがない。ケイコがそうしていたように、彼女たちの表情や仕草に観客が目を澄ますことで、その感情が画面によって語られていることに気づかされる。

その意味でもうひとつ忘れがたいのが、岸井ゆきのが三浦友和と土手の下でトレーニングする場面だ。帰りがけに三浦がかぶっていた赤い帽子が岸井に、ごく自然に手渡され、彼女の頭に乗ってしまう。そればかりか、三浦が後ろ向きにかぶせても、岸井は隙きを突いて前向きにかぶりなおす。この帽子を介した饒舌な対話(当然、2人とも声は発しない)は、言葉に頼ることなく2人の信頼関係を映し出す。そっと告白しておくと、本作を再見したのは、この赤い帽子の移動に見とれてしまい、このシーンをもう一度観たかったからである。なお、終盤でも赤い帽子がどこからともなく取り出されることを予告しておくので、赤い帽子が現れたときには、その動向に注目いただきたい。