Dec 30, 2022 column

2022年の最高傑作『ケイコ 目を澄ませて』には、光のなかに映画が凝縮されている

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16mmフィルムと光

サイレント映画とトーキー映画の端境期に撮られたかのような映画として『ケイコ 目を澄ませて』を見つめれば、本作がデジタルではなく、今ではめったに使用されなくなった16mmフィルムを用いて撮影されていることも納得できてしまう。もっとも、フィルムの使用はそうした形骸的な記号としての意味合いだけでなく、全編にわたって繊細に配置された光と影を際立たせるための装置でもある。

もちろん、デジタル撮影ならば、16mmフィルムよりも遥かに鮮明に映し出すことは可能である。しかし、それでは本作に深く刻まれた陰影や、鮮明とは言いがたい映像に広がる空気感やノイズは消え失せ、無菌室のような映像になってしまう。映画の始祖であるシネマトグラフを発明したリュミエール兄弟の名前が、偶然にもフランス語の〈光〉を意味することを持ち出すまでもなく、映画は、キャメラのレンズに集められた光がフィルムに送られて像を生み出す。そして劇場で映写される際も、光源となるランプから発せられた光がレンズによって拡大されてスクリーンに投影される。映画は光によって生まれ、光によって観客に届けられる。そのことに本作も意識的である。

ジムの外の外灯の明滅に始まり、ジムの片隅で三浦友和がミットを補修する姿を照らし出す光、ケイコの自宅の室内灯、リングに落ちる照明の光へと至るまで決まって白熱光の暖色につつまれており、観客は本作が〈光の映画〉であることに気づかされる。殊にリングに静かに舞う埃は、光を巧妙に配して照らし出さなければ、フィルムに映ることはない。

さらには、自室のケイコに来客を告げるチャイムが、センサーの光の明滅で知らせられるのを目にすれば、光は単にある場所に灯りを落とすだけではなく、自在に動く装置であることを教えてくれる。実際、夜の河川敷にたたずむケイコを、闇の中から現れた警官たちが尋問する場面の、警官が持つ懐中電灯の自由自在な動きと、彼らが去ったあとに、鉄橋の下に佇むケイコの頭上を電車が走行する際に地上へと落ちる光の明滅には、光の躍動を感じずにはいられない。

それだけに、ジムが閉鎖することになり、ケイコの活動が継続できるようにとジムの三浦友和や三浦誠己が尽力して見つけ出した新たなジムの面談にケイコが同行した際、戸惑いと共に不機嫌さを隠さず、同行した三浦誠己を困惑させる理由は、〈光〉に原因があるに違いないと思えてしまう。  

というのも、この真新しいジムは、LEDの青味がかった昼光色が部屋一面をまんべんなく照らし出すだけで、それまで画面を輝かせてきた光はどこにもない。対話を行う際にも、このジムを経営する渡辺真起子はタブレットに向かって語りかけ、それが自動テキスト化されてケイコに提示されるだけに、合理的ではあるものの目を澄ませて顔を見つめることもない。こんなジムには通えないとケイコが拒絶するのも無理はないのだ。

そして、光と影を1カットのなかで見事に映し出すラストシーンは、観客はその素晴らしい光景を前に、ただひたすら目を澄まし続けることになるに違いない。

文 / 吉田伊知郎

作品情報
映画『ケイコ 目を澄ませて』

嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコは、生まれつきの聴覚障害で、両耳とも聞こえない。再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉にできない想いが心の中に溜まっていく。「一度、お休みしたいです」と書き留めた会長宛ての手紙を出せずにいたある日、ジムが閉鎖されることを知り、ケイコの心が動き出す。

監督:三宅唱

原案:小笠原恵子「負けないで!」(創出版)

出演:岸井ゆきの、三浦誠己、松浦慎一郎、佐藤緋美、中原ナナ、足立智充、清水優、丈太郎、安光隆太郎、渡辺真起子、中村優子、中島ひろ子、仙道敦子 / 三浦友和

配給・ハピネットファントム・スタジオ

©2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

公開中

公式サイト happinet-phantom.com/keiko-movie/