騙されやすさの論理
完璧な生活が約束された町「ビクトリー」にジャックとアリスは住んでいる。50年代アメリカの絵に描いたような富裕層の風景である、この町では妻は専業主婦でなければならない。夫の仕事内容について決して聞いてはならない。そして何があってもこの町を出てはならない。
この封建的なルールを強いた共同体のカリスマ的リーダー、フランク(クリス・パイン)の「進歩の敵は何だね?」という質問に、住民は「混沌(カオス)」と答える。
カオスのない人生。それは分かりやすさという強さ。恐怖や不安を感じている人間にとって、強さ(に見えるもの)は惹かれやすいものだ。おそらくこの共同体には、外部からの恐怖を煽ることで支持を得ていく疑似科学的な「騙されやすさの論理」のようなものが渦巻いている。そしてそれはどんな人にとってもまったく他人事ではない。
「ビクトリー」では度々地震が起こる。しかし住民たちは、この深い地響きを伴う揺れに動揺する様子がない。彼らにとっては日常的な揺れであることが伝わってくる。この地震について映画の中で説明されることはないが、夫たちが秘密裏に進めているビクトリープロジェクトとの関わりがあるのかもしれない。
制作陣は舞台となるパーム・スプリングスという土地の発展の歴史に留まらず、秘密結社の存在や第二次世界大戦の際に、核兵器開発の指揮を執ったマンハッタン・プロジェクト等についてリサーチしている。フランクの指揮するビクトリープロジェクトの本社とされる建築物(実際はニューベリー・スプリングスにあるボルケーノ・ハウス)が、元は原子力発電所だったというエピソードは興味深い。
フランクが地震に似た恐怖をわざと作ることで、何かしらの抑圧を住民に与えている可能性は考えられる。それはサブリミナル効果のように住民の恐怖心にすっと忍び寄る。生活を支える拠り所となるはずだった物が、元の役割を変え、いつの間にかこちら側に牙を向けてくるようになる。物質的な価値に囲まれた「戦後アメリカ人の理想の生活」が、むしろアリスを牢獄に閉じ込めてしまったように。
アナザー・ゲイズ(もうひとつの視線)
『ドント・ウォーリー・ダーリン』では円形のイメージ(ビクトリーという町の形自体が円形!)以外に、多面体の鏡のイメージを多用している。鏡は万華鏡のごとく魔術のイメージを提示すると同時に、アリスが常に共同体によって監視されていることを観客に意識させる。
自宅の大きな窓ガラス。ダンス教室の鏡。そしてアリスが毎日欠かさず掃除するバスルームに張られた何枚もの鏡。アリスは謂わば「鏡の国のアリス」であり、囚われの女だ。アリスが日々対面する鏡は、監視の視線のように彼女を苦しめるだけでなく、ときにアリス自身へのメッセージを送る「もうひとつの視線」があることを示している。アリスは少しずつ何かがおかしいことを感じ始める。
作中アリスが何度も幻視するダンスに、オリビア・ワイルドという映画作家のコアがある。これは、女性に対する倒錯的な問題を抱えていたハリウッド・ミュージカルの最大の天才振付師、そして映画監督であるバズビー・バークレーを意識している。
大勢の女性ダンサーの脚線を幾何学的ダンスのように振付けていくバズビー・バークレーが作った画面は、現在においても前衛性に富んでいる。むしろ映画におけるコレオグラフィの最先端として、永遠の新しさを獲得している。
オリビア・ワイルドは、バズビー・バークレーの映画を見るのが好きとした上で、ダンサーを機械のように変えてしまう、その「美しさ」に問いを投げかけている。万華鏡のように美しいが、同時に悪夢でもあるこの幻視にアリスは苦しみ、ダンス教室で操り人形のようなジェスチャーを見せる。ビクトリープロジェクトの昇進祝いとして舞台に上がったジャックが、同じようにどこか操り人形のような不思議なダンスを披露するのは興味深い。
バズビー・バークレー風のダンスは、相手に疑問を感じながらも、その美しさに惹かれている状態という意味で、本作における「もうひとつの視線(眼球)」というテーマ、そして引き裂かれる官能性というテーマとも共鳴している。