Sep 02, 2022 column

『ブレット・トレイン』原作愛と創造的破壊の奇跡的融合、あるいはタランティーノへの回帰

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かくも楽しく、かくも贅沢なサスペンス・アクション大作が、日本を舞台に誕生しようとは。日本の大人気作家・伊坂幸太郎の代表作『マリアビートル』を、ブラッド・ピット主演でハリウッドが映画化した『ブレット・トレイン』は、映画界のコロナ禍からの復活を高らかに宣言するような痛快作だ。

いまや劇場公開される大作アクション映画といえば、シリーズ作品やスーパーヒーロー映画、リメイク・リブート作品が大多数。そんな中で『ブレット・トレイン』は、アメリカではさほど知られていない日本のスリラー小説を原作に、世界市場への勝負を仕掛けた。緻密かつ知性的、スタイリッシュというイメージも強いであろう伊坂作品だが、本作はその精神性を継承しつつ、軽やかでバカバカしい、しかも極めて映画的な一作に仕上がっている。伊坂作品の映画化としても稀有なその魅力を、本稿ではいくつかの角度から解剖してみたい。

緻密な伊坂原作、巧みに脚色

物語の舞台は、東京発・京都行の超高速列車「ゆかり号」。久々に仕事復帰を果たした殺し屋・レディバグは、とある任務のためにこの列車に乗り込んだ。目印つきのブリーフケースを盗み出し、次の駅で降りるのだ。しかし、幸運を運ぶといわれる「てんとう虫」を意味する“レディバグ”というコードネームとは裏腹に、彼はとびきり運の悪い男。今回も無事に任務を終えられるかと思った矢先、メキシコからやってきた殺し屋・ウルフになぜか襲撃されて列車を降りそびれる。

レディバグやウルフと同じく「ゆかり号」に乗っているのは、殺し屋コンビのタンジェリン&レモン、毒使いの殺し屋・ホーネット、傷ついた息子の復讐を誓う父親・キムラ、彼を脅迫する女子・プリンス。さらには京都駅で列車の到着を待つ犯罪組織の首領ホワイト・デスと彼の息子、キムラの父親・エルダー、そして人気キャラクター「モモもん」まで巻き込みながら、一同は熾烈な争いに突入していく。なぜ彼らは同じ列車に乗り合わせたのか? 陰謀と偶然の向こう側には、いったいどんな真実が待っているのか?

2022年6月に、本作の原作小説である『マリアビートル』は、英国推理作家協会による「ダガー賞」翻訳部門で最終候補に残った。惜しくも受賞は逃したものの、原作のストーリーが日本だけでなく世界で高く評価された形だ。『ブレット・トレイン』は、そんな原作の緻密な側面を――デビュー当時からプロット巧者として知られる伊坂幸太郎の魅力のひとつを――丁寧にすくい上げ、その旨味を損なわぬよう映画に取り入れている。

もちろん原作は文庫本で550ページ以上もの大ボリュームだから、さすがに物語のすべてを映画にすることはできない。しかし脚本のザック・オルケウィッツは、原作のエピソードを大胆に刈り込みながらも、登場人物の行動と思惑、そして過去と現在が交錯する物語の醍醐味を忠実に再現。原作の「運」「運命」というキーワードを前面に押し出すことで物語に新たな解釈を与えつつ、登場人物のバックストーリーをうまく絡め合わせて(時には並置して)、さまざまなエピソードがひとつに収斂してゆく群像劇に仕上げてみせた。

おそらく原作のファンならば、原作の細やかなディテールが思いのほか残っていることに驚くことだろう。たとえば、レモンが愛してやまない「きかんしゃトーマス」をめぐる展開はほとんど原作のまま(ちなみに原作以上の展開も用意されている)。また、“伊坂節”とも言うべきコミカルな展開をブラッド・ピットらがそのまま演じているのもうれしい。一部の登場人物は設定が大幅に変更されているが、それも映画版ならではの味わい。現代的な切り口を加えることで、原作にはない新たなテーマを織り込むことにも成功している。

ちなみに、時間を往復しながら展開するサスペンス/ミステリーの筋運びや、登場人物が繰り出す軽妙な台詞の数々は、原作の『マリアビートル』よりも、むしろ原作者の伊坂が影響を受けたクエンティン・タランティーノ作品に先祖返りしたかのよう。『パルプ・フィクション』(1994年)を思い出すことはもちろん、タランティーノに影響を与えたアメリカの大衆小説(まさに“パルプ・フィクション”)に回帰した感もあれば、ガイ・リッチー作品に近い部分もある。『マリアビートル』のハリウッド映画化としては、まさに最も理想的な形式ではないか。