イギリスを代表する名優であり、いまや『マイティ・ソー』(2011)や『シンデレラ』(2015)などハリウッドの大作を手がける映画監督でもあるケネス・ブラナーにとって、『ベルファスト』は記念碑的一作だ。舞台からキャリアをスタートさせ、フィクションの世界に人生を投じてきたブラナーが本作で描いたのは、幼少期の実体験に基づく半自伝的物語。今回は、虚構を愛し、また虚構に愛された男ケネス・ブラナーが描いた〈現実〉に迫ってみたい。
俳優・映画監督、ケネス・ブラナー
ケネス・ブラナーという名前を聞いて、いったいどんな姿を思い浮かべるだろうか。23歳でロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに参加したブラナーは、ウィリアム・シェイクスピア作品をはじめとする数々の舞台に出演し、自ら演出も務めてきた。その経験の延長上に、映画監督デビュー作である『ヘンリー五世』(1989)がある。
もっとも日本の観客には、おそらく、映画監督としてよりも俳優としての印象が強いことだろう。シェイクスピアの有名戯曲を自ら映画化した代表作『ハムレット』(1996)でも主演を兼任しているし、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(2002)のギルデロイ・ロックハート先生役は(たとえブラナーの名を知らなくとも)大勢の記憶に残っているはずだ。
ほかにも俳優としての代表作には、トム・クルーズ主演の『ワルキューレ』(2008)をはじめ、『マリリン 7日間の恋』(2011)のローレンス・オリヴィエ役、クリストファー・ノーラン監督作『TENET テネット』(2020)で演じた悪役アンドレイ・セイター、監督を務めた『オリエント急行殺人事件』(2017)『ナイル殺人事件』(2022)の主人公エルキュール・ポアロ役などがある。いずれも観客に大きなインパクトを残しながら、それぞれの作品に深みを加える演技が印象的だった。
監督としては、すでに触れた『ヘンリー五世』『ハムレット』などのシェイクスピア劇や、そのエッセンスを巧みにヒーロー映画へと持ち込んだ『マイティ・ソー』、名作オペラを刷新した『魔笛』(2006)、スリラー映画の傑作をリメイクした『スルース』(2007)のほか、『エージェント:ライアン』(2014)ではアクションに、『アルテミスと妖精の身代金』(2020)ではファンタジーに挑戦している。キャリアの初期にはコメディ映画も手がけているように、上品なユーモアもブラナー作品の特徴だ。このように、一見するとジャンルを問わず監督業を重ねることで(じつは共通点があるのだが、その話題は『ベルファスト』の劇場用パンフレットにて)、ブラナーはいわば職人監督的な仕事ぶりを続けてきた。
言い換えるならブラナーのキャリアは、確かな演技力で役柄に説得力をもたらす俳優としても、幅広いジャンルを手がけるストーリーテラーとしても、フィクション=虚構にとことん奉仕するものだった。ケネス・ブラナーその人の姿は、まるで役柄や作品の中に消えてしまっているかのようだ。
ところが『ベルファスト』は、幼少期の経験をもとに、ブラナーがオリジナル脚本を約25年ぶりに執筆した半自伝的作品である。今回は監督業に徹しているブラナーは、あえて虚構と現実を綯い交ぜにすることによって、虚構から現実を炙り出し、現実から虚構を見つめ直してみせた。