Jun 26, 2022 column

『ベイビー・ブローカー』は「生きる」ことの全的な肯定に向かう旅

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韓国の「ベイビー・ボックス」

韓国では2009年からソウル市内の教会で始まり、現在では国内に3つのベイビー・ボックスがある。近年は毎年200名を超える赤ちゃんがポストから保護されているようだ。(千葉経済大学短期大学部こども学科教授・柏木恭典のコラム「韓国・日本における赤ちゃんポストや養子縁組の現状」参照)。

通常、ベイビー・ボックスの中にある保育器に置かれた赤ちゃんは、扉を閉めると外側のロックが掛かり、施設の中からスタッフが引き取る仕組みになっている。ところがこの映画の中では、ソヨンが置いてきた赤ちゃんを、こっそり連れ去ってしまう男2人組がいた。赤字続きの古びたクリーニング店の経営者で、借金に追われる中年男のサンヒョン(ソン・ガンホ)と、ベイビー・ボックスを設置している教会の施設で働く児童養護施設出身のドンス(カン・ドンウォン)だ。

彼らの裏稼業は、ベイビー・ブローカー。孤児になってしまった赤ちゃんをボックスから密かに横流しして、養父母を探し、子供が欲しいと願う夫婦に高額で売りつける。もちろん犯罪だが、この2人組は身寄りのない赤ちゃんに温かな家庭を見つけるための善行だと開き直っているのだ。しかし、翌日思い直して赤ちゃんを取り戻そうと再び教会にやってきたソヨンが、警察に通報しようとしたため、2人は仕方なく自分たちのもくろみを白状する。とはいえ、まだ自身が「子供」といった佇まいのソヨンが、自分で子供を育てることの困難に変わりはない(産ませた父親は誰なのか、最後まで語られることはない)。

そこで3人は共に車に乗り込んで、なるだけ条件の良い赤ちゃんの養父母捜しの旅に出ることにする。一方、サンヒョンとドンスを現行犯で検挙するため、ずっと尾行していたスジン刑事と後輩のイ刑事(イ・ジュヨン)は、3人の後を車で静かに追っていくのだが‥‥。

社会派メルヘンとしてのロードムービー

こうしてベイビー・ボックスを介して出会った面々の風変わりな旅が展開していく。すなわちロードムービー仕立てなのだが、この映画の道行きは極めてユニークだ。犯罪絡みで警察に追われている点ではミステリー風の体裁なのに、不穏な緊張感がほとんどなく、旅の行方はユーモアとペーソス、そしてハートウォーミングな詩情で覆われていく。ブローカー2人組もいつしか金儲けのことより、本気の善意が上回る。とりわけ児童養護施設出身のドンスは、棄てられた子供の悲しみに深く同期しつつ、我が子を「棄てた」側――ソヨンの事情や孤独にも寄り添っていくのだ。つまり不安的な軋みや歪みから生じるスリルといった映画的クリシェ(紋切り型)を乗り越え、穏やかな安定と調和を目指す旅の形なのである。

インビジブル・ピープル(見えない人々)とも呼ばれる、光の当たらない場所で必死に生きる民衆たちの姿――。また是枝監督作品の刷新点としては、今回、母性や父性についての問い直しの視座がある。育児のノウハウをまったく身につけていない若い母親ソヨンに代わり、中年男のサンヒョンが「母親」ばりのシッター力を発揮する。これは家父長的な儒教文化が根強い韓国という土壌だからこそ、余計強調した点かもしれない。先にドライな言葉(認識)を投げかけたスジン刑事も、この珍道中とも言える奇妙な一行の姿を見つめる中で変容していく。最終的には血縁や性差、あらゆる既成の枠組みを超えて、社会全体が「母親」もしくは「両親」として機能できないものか、といったような新しい相互扶助のシステムや関係性の提案がここから読み取れる。

厳しい現実の軋みや歪みを風刺的に捉えながらも、寓話的なニュアンスに満ちた『ベイビー・ブローカー』は、優しい社会派メルヘンとでもいった趣のヒューマンドラマである。どこか『オリバー・ツイスト』や『クリスマス・キャロル』など、弱者の視点で社会の片隅を見つめた英国の作家、チャールズ・ディケンズ(1812年生~1870年没)の小説を思わせる。生きることの活力や理想の在処、そして未来への明るい可能性に向けて、是枝監督と韓国最高峰の才能の出会いが、映画に熱い命を吹き込んでいく。