映画やテレビドラマに欠かせない名バイプレイヤーの大杉漣さんが急逝した。気取らない性格で、共演者、スタッフ、そして多くのファンに愛された66年の生涯だった。スクリーンやテレビ画面に当たり前のように佇んできた個性派俳優を失った喪失感は、容易には埋めようがない。
クライマックスを前にして、唐突にエンディングロールが流れ始めたような不条理さを感じずにはいられない。俳優の大杉漣さんが2月21日に急性心不全のために亡くなった。66歳という、俳優としてこれからが楽しみな年齢だった。現在、テレビ東京系で放映中の人気ドラマ「バイプレイヤーズ~もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら~」のその日の撮影を終え、共演者たちとの晩飯を済ませた後、大杉さんは宿泊先のホテルで腹痛を訴え、タクシーで病院に搬送された。遠藤憲一、光石研、松重豊ら共演者たちに見守られての最期だった。持病もなく、その日も元気に撮影現場で過ごしていただけに、突然の悲報に誰もが言葉を失った。
2月24日に放送された「新・情報7daysニュースキャスター」(TBS系)では、大杉さんを追悼するVTRが流れ、『ソナチネ』(93年)を皮切りに10本の映画に大杉さんを起用した北野武監督は「漣さんが死んだとマネージャーから言われても、すぐには分からなかった」と涙をぬぐいながら心境を語った。大杉さんが『ソナチネ』をきっかけに映画俳優としてブレイクし、昨年公開された『アウトレイジ 最終章』が大杉さんにとって最後の北野映画となったことから、「すごく変な言い方だけど、俺が生かして、俺が殺したような妙な気がする」とまだ整理のつかない心情を吐露している。
大杉さんの役者人生は、「バイプレイヤーズ」でのみんなから慕われるリーダー役さながら、主演を張ることはなくとも、作品のスパイスとなり、現場のムードメーカーとして、共演者やスタッフから愛されるものだった。演じた役は自転車に乗った殺し屋、裏社会の情報屋、嫌味な週刊誌記者、仮面ライダーの宿敵など人間臭いものが多く、映画・オリジナルビデオ・テレビドラマなど400本以上の作品に出演した。
1951年、徳島県小松島市で大杉さんは生まれ育ち、明治大学在籍時に演劇雑誌に掲載されていた劇作家&演出家・太田省吾の「劇を行なうのに相応しい者は、おそらくこの世には存在しない。存在するのは、ただ生活に適さない面を持った者である」という文章に惹かれ、太田が主宰する劇団「転形劇場」の一員となる。大学は中退し、74年の入団から88年の解散まで同劇団を支え続けた。
20~30代の長くを過ごした劇団という居場所を失った大杉さんは、新しい居場所を撮影現場に求めた。高橋伴明監督、黒沢清監督、三池崇史監督らのオリジナルビデオ作品に出演するようになる。オリジナルビデオ作品はどれもハードなスケジュールだったが、家族を養うという経済的理由に加え、役者としての自分を必要としてくれる現場があることがうれしかった。「バイプレイヤーズ」で共演することになる田口トモロヲや遠藤憲一たちとは、オリジナルビデオ時代に苦労を共にした仲だった。
俳優としての転機が訪れたのは40歳のとき。オリジナルビデオの世界で食べてはいけるようになったが、ヤクザの組長か若頭を演じることがほとんどのこの生活がいつまで続くかは分からない。役者としてモノにならないようなら、故郷の徳島に家族を連れて帰ろうと胸に決め、初めて映画のオーディションを受けた。それが北野監督の『ソナチネ』だった。オーディション会場に1時間遅刻するという大失態をおかしながらも、舞台やオリジナルビデオの世界で叩き上げてきた風貌は、わずか2秒の面談にもかかわらず北野監督の脳裏に強い印象を与えた。
暴力団同士の激しい抗争を描いた『ソナチネ』の中で、ビートたけし、寺島進、勝村政信、渡辺哲らやさぐれた大人たちと一緒に童心に帰って海辺で遊ぶシーンは、とても美しく、そして切ない。生と死のギリギリの狭間を綱渡りする劇中の主人公たちと、役者人生を続けるかどうかの瀬戸際に立っていた大杉さんの心情はシンクロするものがあった。『ソナチネ』は興行的には奮わなかったものの、大杉さんの作り込まない演技は高く評価され、北野監督の代表作『HANA-BI』(98年)でブルーリボン賞助演男優賞に選ばれるなど、売れっ子俳優となり、多忙な日々を過ごすようになる。