Oct 14, 2017 column

憧れと挑むべき高い頂に向かって、BOØWYが制作した最初にして最後のコンセプト・アルバム、それが『JUST A HERO』である。

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=4th Album『JUST A HERO』(1986年3月リリース)=

故デヴィッド・ボウイ氏(UKロンドンはブリクストン生まれ)が、1976年から79年に制作&発表した3枚のアルバム、すなわち『Low』『Heroes〜邦題は“英雄夢語り”』『Lodger〜邦題は“間借人”』は、“Berlin Trilogy(ベルリン三部作)”と呼ばれ、サブカルチャーを標榜し、一定以上の識見を持った心あるロック・ファンの全てに愛された作品群だった。

中でも、フォトグラファー:鋤田正義(すきたまさよし)氏のスチール(still)がアルバム・カヴァーとなった『英雄夢語り』(‘77年リリース)は、「ロック・ミュージックにとって“美”とは何か?」というテーマに充分すぎるほど応答した、音楽作品であると同時に美術作品でもあるようなアルバムだった。

したがって、レコード・ジャケットを矯(た)めつ眇(すが)めつ視界の中に入れながら、レコード針が溝をトレースしていくことによって生起する表象(ひょうしょう)、つまり、感覚の複合体として心内に思い浮かべられる対象を確かめつつ、さらにはそれらをどこかで楽しみつつ、楽曲を受け止めればよかった。

『英雄夢語り』のタイトル・チューンである「“Heroes”」は、イントロの、おそらくはE-Bow(エレクトリック・ボウ)を使用したギターの長音と、シンセで作ったホワイトノイズをロコモーティブ=移動運動のように作用させた複合音が、私見では“意識内の長きに渡る移動”を表象として映す。

そして、2番の頭に当たるリリック(歌詞)が、これだ。

I, I can remember (I remember)
Standing, by the wall (by the wall)
And the guns shot above our heads (over our heads)
And we kissed, as though nothing could fall (nothing could fall)
And the shame was on the other side
Oh we can beat them, for ever and ever
Then we could be Heroes, just for one day

“頭上で炸裂する銃声”と“何事も起こらないと思ったキス”…そして“向こう側の恥ずべき人物”……識見を持つ当コラムの読者諸氏には、もう、察しがついていることだろう。

そう、前回の『BOØWY』の原稿に記した“分断された都市とコークスの匂い”というフレーズから生起する、表象としての詩的な階層〜レイヤーと言ってもいい……ベルリンの各家庭から立ち昇るコークスを燃やす煙が冬霧と同化し、元は鮮明な通行人たちの姿をおぼろげにしてしまう事態。

その煙幕の如きものの中、(概念としては“引き裂く”に該当する)ベルリンの壁の近くに二人して立てば、「僕とあなたは、KINGとQUEENに、あわよくば、1日だけは英雄になれる」と歌われているのである。

画餅(がへい)であるかも知れぬ自由を“ある事態”から奪取する、音楽の力動と美。倒れ落ちそうなのに、走り出しても行けそうな、その複合体の感覚に身を賭してもいいのではないのだろうか?

アルバム『BOØWY』をハンザ・スタジオにて完成させたBOØWYの4人は、意識・無意識に、分断された都市に潜むのは哀しみだけではなく、自由を手元に奪い返す複合体の感覚を表現することに等しいと思う欲求に駆られていたはずだ。
考えてみれば、BOØWYは過去3作でも、完全なるコンセプト・アルバム(概念に基づく作品)を作ったことはなかった。
であるならば、布袋寅泰さんを筆頭に、敬愛するデヴィッド・ボウイの『Heroes〜“英雄夢語り”』への返歌(へんか・かえしうた)を作ることで、1枚のコンセプト・アルバムにしようと考えたことは、想像に難くない。
それが『JUST A HERO』へと結実したのである。