レジェンド声優インタビュー 野沢雅子×平野文 (前編)
arranged by レジェンド声優プロジェクト
声優:野沢雅子 声優:平野文(聞き手)
- 平野:
-
私が声優デビューしたのは『うる星やつら』(1981年~)なんですが、マコさん(編集部注:野沢雅子さんの愛称)には早くもその現場でお目にかかっているんですよ。
- 野沢:
-
そうですね。たまに出てくる金太郎君の役をやらせていただいていました。可愛くて生意気なヤツだったわね(笑)。
- 平野:
-
ですので、マコさんが愛くるしくて素敵な方だということは知っているんです(笑)。でも、それ以前のマコさんのことを聞く機会はありませんでした。そこで今回はまずその辺りからお話をお伺いしたいと思います。 まずは、野沢さんがこのお仕事を始めたきっかけから聞かせていただけますか? 登志夫ちゃん(古川登志夫さん)と同じく、野沢さんも子役としてキャリアをスタートしているんですよね?
- 野沢:
-
そうなんです! だから、自分から役者になりたいって思ったわけではないんです。なんたって赤ちゃんの頃から出ちゃってますから。でも小学三年生の時、自宅の姿見の前に立って『私は女優になる』って宣言したらしいんですよ。どうしてそんなことをしたのか、自分でもよく分からないんですけどね(笑)。
- 平野:
-
その頃というのはまだ東京オリンピック(1964年)の前ですよね?
- 野沢:
-
そのず~っと前です。だからまだテレビはほとんど普及していなくて、映画とラジオが役者の活躍の場でした。叔母(佐々木清野さん)が松竹蒲田時代の名女優で、自分が役者を辞めた後、姪っ子を女優にしようと考えたのが、この世界に飛び込んだきっかけです。
- 平野:
-
お父様(野沢蓼洲さん)も画家として活躍されていたそうで……その血は確実に受け継いでいるんでしょうね。やっぱり当時の子役は、そういう芸術一家の方が多かったんですか?
- 野沢:
-
あのね、当時の映画・ラジオ時代の子役は、1作品に1人くらいしか出ることがなくて、横の繋がりはほとんどなかったの。でも、確かに自分の意志で芝居を始めたという人はあまりいなかったかも。役者志望でこの業界に入ってくる子供が現われたのは、テレビドラマが人気になって以降、プロダクションみたいなものができはじめてからじゃないかしら。
- 平野:
-
野沢さんのお名前をインターネットで調べると、初期の仕事として実写ドラマの『赤胴鈴之助』(1957年~)や『あんみつ姫』(1958年~)などが挙がってきます。これは、どういった経緯で出演することになったんですか?
- 野沢:
-
二十歳頃の私は舞台が大好きで、できればそれをメインに活動したかったのですが、当時の劇団はどこも貧乏で、お金を稼ぐためにマスコミ仕事に役者を派遣していたんですよ(笑)。だから本音では「しょうがないな~」なんて思いながらやっていました。アニメの仕事もその流れでやることになって……。
- 平野:
-
それが、日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』(1963年~)。
- 野沢:
-
そうそう、それですね!
- 平野:
-
その当時のアニメの収録現場ってどんな感じだったんでしょう?
- 野沢:
-
『鉄腕アトム』の現場で一番記憶に残っているのは、毎回ではないんですけど、手塚治虫先生が現場にいらしていたことですね。原作の先生がアニメの収録を見に来ているということで、とても緊張したのを覚えています。先輩方にそう言ったら「マコは全然緊張していない」って苦笑いされてしまったんですけど(笑)。
- 平野:
-
手塚先生はどんな方だったんですか?
- 野沢:
-
直接お話しする機会はなかったんですが、見ているだけで、ああ、この人はこの作品をとても愛していらっしゃるんだなぁということが伝わってきました。優しげな顔で、何度も頷きながら映像を見ていらっしゃったのが印象的でしたね。
- 平野:
-
当時のテレビ番組はラジオなどと同じく生収録が多かったそうですが、『鉄腕アトム』もそうだったんですか?
- 野沢:
-
いえいえ、アニメは事前収録でしたよ。テレビアニメを生本番でやるのはさすがに厳しい。トチったら大事じゃないですか。でも洋画の吹き替えは最初のころは生でやっていました。
- 平野:
-
それは想像するだに大変そう……。
- 野沢:
-
ある程度キャリアを積んだ、30代くらいの先輩俳優が緊張でガチガチになっちゃってましたからね。でも失敗したらそれが全国のお茶の間に流れちゃうわけですから仕方ない。私なんかはまだ若くて怖いもの知らずだったので、思いっきりやれたんだけど(笑)。
- 平野:
-
当時の先輩方とは具体的には?
- 野沢:
-
大平透さん(『笑ゥせぇるすまん』喪黒福造役など)とか、田中信夫さん(海外ドラマ『コンバット!』サンダース軍曹役など)、納谷悟朗さん(『ルパン三世』銭形警部役など)は、この頃から声優として活動されていらっしゃいましたね。ただ、皆さん、積極的には吹き替えの仕事をやりたがってはいなかったんじゃないかしら。生放送で緊張するということ以上に、映像に合わせて演技しないといけないことに不満を感じていたようです。正直、私もあまり好きではなかったわね。
- 平野:
-
「映像に合わせて演技しないといけない」のがイヤだったんですか?
- 野沢:
-
とにかく自分の芝居ができないのが辛かったですね。私だったらここでブレス(息継ぎ)を取るよってところでしゃべり続けないといけないとか、逆に不自然にセリフを区切っていかないといけないとか、そういうのがすごく気持ち悪かったんです。そのくせ、トチったらそれが全国に放送されてしまう。先輩方だって、自分の芝居ができたらトチらないんですよ。舞台ではそりゃあ見事なものでしたから。
- 平野:
-
そういうこともあって、テレビアニメや洋画吹き替えの黎明期に活躍されていた皆さんは「私は“声優”ではない」とおっしゃる人が多かったんですね。 そういえば、以前、納谷六朗さん(『聖闘士星矢』カミュ役など)とお話をしたとき、「オレたちは配管工だ」と声優の仕事を説明してくださったことがありました。声優は“画面の動き”と“台本のセリフ”を職人的に繋ぐ仕事なんだという意味ですね。たとえセリフの区切りが不自然でも、それを水漏れしないようきちんと繋いであげないといけない、と。 私は、その上で、それを素敵なお芝居に昇華できた方が、スーパーレジェンド声優として今でも語り継がれている皆さんなのではないかと思っています。
- 野沢:
-
そうね、そうかも知れないわね。
- 平野:
-
もちろん、マコさんもそんなスーパーレジェンド声優のお一人なんですよ?(笑)