小説版のラストは書いていてつらかった
ーー鏑木が巻き込まれる事件は、日本でこれまでに起きた多くの死刑冤罪を連想させるものがあります。
具体的にどの事件をモチーフにしたというわけではありませんが、日本には死刑冤罪になった事件がかなりの数あるんです。「この事件の真犯人は別にいるんじゃない?」と誰もが思うような事件でも、警察に逮捕され、裁判で一度有罪判決を下されてしまうと、無実であること改めて証明することが困難なのが今の日本の司法組織だと思うんです。「正体」を書き進めながら、そのことは物語の中に取り込みたいと思っていました。
ーー日本で過去に起きた実在の死刑冤罪についてリサーチされ、「なぜ冤罪事件は起きるのか」という司法システムの問題点にまで踏み込んでいるように思います。
過去の事件を参考にはしていますが、今回の小説執筆のために特別にリサーチしたというよりは、自分がこれまで読んできたノンフィクション系の本が役立ったように思います。
僕の場合、小説よりもノンフィクションを読むことが多いんです。実際に起きた冤罪事件についての知識はそれなりにありました。捜査している警察側も途中で「あっ、こいつは犯人じゃないな」と気づいても、引くに引けなくなってしまうことがあるようです。
それもあって、今回、藤井道人監督が撮った映画版は事件を追う警察側や権力者側からの視点も描かれていて、とてもよかった。山田孝之さん演じる又貫刑事は警察内の上下関係に葛藤しながらも真実を追求しようとする。小説ではあえてそちらの視点を描かなかったんですが、又貫刑事の存在が原作よりも大きなものとなったことは、僕としてもありがたかったですし、一つ救われた気がしました。
ーー逃亡犯が名前や姿を変えながらサバイバルする物語には、李相日監督が映画化した芥川賞作家・吉田修一による小説「怒り」(中央公論新社)もあります。吉田修一作品もやはり実際の事件をモチーフにしたものが多いわけですが、実在の事件に文学的アプローチを試みている吉田作品に対し、染井作品はエンタメ小説として成立させているように感じます。
こういうと身も蓋もないんですが、本当に意識せずに書いているんです(笑)。「正体」のラストも、僕自身が最後の最後まで「どうなるんだろう?」と考えながら書いたんです。
小説の結末については、読者からの反応はさまざまでした。中には「なんてことをしてくれたんだ」と厳しい言葉を寄せる人もいました。僕自身も、書いていてつらいものがありましたが、そうなってしまったものは仕方ありません。はたして映画はどんなラストを迎えるのか、そこも楽しみにしていただけたらと思います。
ーークランクイン前に藤井監督や鏑木役の横浜流星さんに会ったそうですね。
流星くんとはTHE RAMPAGEというグループの岩谷翔吾という共通の友人がいて、彼を介してお互いに会いたいと以前から話していたんです。最初に会ったのはテレビ電話でした。僕はそのときデロデロに酔っていて、流星くんは舞台「巌流島」(2023年2~3月)を終えた直後、宮本武蔵のメイクのままでした。酔っ払いと宮本武蔵がテレビ電話で会話するというコントのようなシチュエーションでした(笑)。
それで後日、改めて三人で食事をしようということになったんです。それからまたすぐに、今度は藤井監督も呼ぼう、ということになり、四人で食事をしました。藤井監督の作品は今回の映画化が決まる前から拝見していて、自分よりも年下の若い監督が撮っていることに驚きましたし、藤井監督の作風にも共感するものがありました。
そんな藤井監督に自分の小説を映画化してもらえるのは、すごくいいご縁だなと思っていたんです。食事の席はすごく楽しく、話も弾みました。
ーー染井さんから映画化に関しての要望などは伝えたんでしょうか?
僕からは「自由につくってください」とだけ伝えました。昨今、原作を映像化する際に脚色することが問題になりがちですが、藤井監督と流星くんの作品に対する熱い想いを知ることができたので、任せても大丈夫だなと思ったんです。