Oct 05, 2017 interview

松本潤、有村架純、坂口健太郎が泥沼愛に『ナラタージュ』行定監督が語る“大人の恋愛”

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松本潤、有村架純、坂口健太郎ら人気キャストを配して、島本理生のベストセラー小説『ナラタージュ』が映画化された。メガホンをとったのは『世界の中心で、愛をさけぶ』(04年)や『今度は愛妻家』(10年)など“失われた愛”を撮り続けてきた行定勲監督。高校時代からずっと想い続けた教師、報われぬ恋に悩むヒロインを支えてくれた恋人……、そんな2人の男の狭間で揺れ動く女心を、リアルなキスシーンやベッドシーンを交えて情感たっぷりに描いてみせた。恋愛映画の名手である行定監督に、大人の恋愛の在り方について語ってもらった。

──純愛では済まない、キスシーンやベッドシーンもある“大人の恋愛”映画として楽しませてもらいました。

「大人の映画だね」と観ていただいた方から言われて、実は少しばかり驚いているんです(笑)。「大人の恋愛を描こう」という意識は特にありませんでしたから。でも、僕は成瀬巳喜男監督の作品が好きで、成瀬監督が描いていた“人を好きになることは、正しいだけでは済まない”といった部分にちゃんと向き合って映画を撮りたいなとはずっと思っていました。普通だと自分の中にある欲望を封じ込めるのが恋愛ドラマの鉄則でもあるんだけど、『ナラタージュ』って原作小説には、“欲望が最優先されるくらい、人を好きになる”ということが書かれていたわけです。欲望が最優先されているから、それはやはり若者の物語だろうと僕は思っていたんですが、映画を観た方に「大人の映画だね」と言われるのでちょっと意外です。

──若者向けの、リアリティーのない恋愛映画が多すぎるのかもしれませんね。

幻想ですよね、映画館には若者たちが集まるはずだという。僕がよく行く映画館には、ほとんど若者はいません(笑)。もちろん、センスのよさそうな一部の若者たちは映画館に来ていますけど。映画館に足を運んでいるのは、大人たちです。そういう意味では、そういったお客さん、大人の観客の鑑賞にも耐えうる恋愛映画として認めてもらえるのなら、うれしいですよ。最近はワイドショーなどで、よく不倫問題が取り上げられていますけど、あれって本気で「不倫はよくない」と主張しているわけではなく、番組づくりとしてやっているわけでしょ。その点、『ナラタージュ』は生々しいとも言われますが、恋愛している当事者たちなら当然なことが描かれている。人が人を好きになるのは、悩んだり、かっこ悪かったりするものだと思いますよ。

世界の片隅で、しっとりとした愛に触れる

──大学生の泉(有村架純)、高校時代の演劇部の顧問・葉山先生(松本潤)、泉のことを想う同年代の小野(坂口健太郎)という3人の恋愛模様が描かれるのは原作どおりですが、舞台が東京近郊から富山に移ったことで作品全体の雰囲気がずいぶん違ったものに感じられます。

映画づくりをする上で、作品全体のトーンをどうするかということは重要です。東京が舞台だと、大きな街の中で起きた小さな物語のように見えてしまうと思ったんです。それなら地方都市で起きた物語にしようと。特定の街というよりも、どこか架空の街というイメージですね。その街そのものが、主人公たちのためにあるかのように思える場所。湿度の高さも感じられるといいなと思いました。世界の端っこに追い込まれたかのように生きる高校教師と、彼を救おうとしながら自分も救われることを願っている女の子が出逢い、惹かれている様子は、どこか隔絶されている場所がいいなと思ったんです。今回のロケ地に選んだ富山は、とても絵づらのいい街でした。

──ずっと曇天つづきの空も、泉たちの心模様のようで印象的です。

そう、ほとんど晴れ間がない(笑)。撮影は、ずっと曇天狙いでした。それに富山って海があり、川が流れ、運河もあり、雨がよく降るんです。水が多い街。また、民家の屋根が黒瓦なので、雨に濡れると黒光りして、すごくいいんですよ。

──きれいごとでは済まない青春映画を撮るには、最適な街だろうと。

誰からも見逃してもらえそうな街というか。東京だと人が多すぎて、人が人を監視しているような雰囲気がある。その点、富山は穏やかで落ち着いたいい街。ですが、それがかえって主人公たちの心のささくれを意識させてしまうことになる。富山のちょっとくすんだ雰囲気がね、『ナラタージュ』の世界を描くにはぴったりでしたね。

恋人に土下座させる側、させられる側の心理

──人気キャストたちが、これまでのイメージを一新する熱演ぶりを見せています。ひときわ強烈な印象を放つのは小野役の坂口健太郎。爽やかな好青年のはずが、泉と交際を始めてから、泉への独占欲にどんどん囚われて醜態をさらすようになっていく。

いますよね、こういう男性は(笑)。坂口くんが演じた小野の気持ちが「分かる」という男性の声はすごく多い。彼女への気持ちがいつの間にか本人を通り越してしまって、自分の気持ちのほうが先走ってしまう。あれだけ自分に対してプライドが高く、かっこ悪いまねをすることを嫌っていた男が、自分の欲望を最優先するようになってしまう。恋愛ってそういうものなんでしょうね。自分の欲望を抑えられるようなら、それは遊びに過ぎないのかもしれない。

──葉山先生のもとへ行こうとする泉に、「土下座しろ」と小野は言い出す。仕方なく土下座した泉は裸足で去っていく。インパクトのあるシーンでした。

よっぽどムカついていたんでしょうねぇ、女性に土下座させるなんて。原作にもあるシーンですが、原作者の島本さんも実際に土下座した経験があったそうです。土下座して謝れば解決する問題ではないんですが、とりあえず土下座してしまう。結局ね、謝るってことは自分を改めようという気持ちがないからだと思うんです。そのことが、『ナラタージュ』を撮りながら分かりました(笑)。自分が悪いとは思っていないんです。議論して、「分かった。ごめん」と言うけど、「ごめん」は必要ないはず。「分かった」だけでいいんです。相手も「分かったなら、それでいいよ」で済ませればいい。そこに「ごめん」と言葉を加えることで、その場を何とか無理矢理に収束させようとする。恋愛している当事者たちって、相手の着信履歴や手紙を勝手に調べたりして、一般常識や男女間のルールは簡単に破られるし、傍から見れば笑っちゃうくらい滑稽なことだらけ。逆に初恋の人と結ばれ、今もずっと一緒に暮らしているという人は、本作の誰にも共感できないわけです。観た人の恋愛偏差値によって、いろんな見方ができるのが『ナラタージュ』っていう作品でしょうね。