Oct 07, 2016 interview

人生に絶望する時の予行練習になるような、そんな映画を撮りたい。映画『淵に立つ』深田晃司監督・ロングインタビュー

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映画『淵に立つ』©2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMAS

“苦く厳しい家族像”は日本映画の伝統だった

──深田監督作品は、日常会話から浮かび上がる孤独感の描かれ方が生々しくてリアルです。劇団「青年団」で培った経験も大きいと思うのですが、今回何か参考にされたものはありますか。

利雄と章江の両親のモデルは自分の両親でした。物心ついた時から、両親はお互いに事務連絡しかしなくて、夫婦の日常会話というものを聞いたことがなくて。日曜日になると車に乗ってファミレスに行ったりするんですけど、運転席と助手席に座っている両親は後部座席に座っている兄弟には話しかけても、夫婦間では一切話しないという状態でした。でもそれが自分にとってトラウマになっていることもなかったのですが、その一方で映画やドラマが振りまく「理想の家族像」には冷ややかな気持ちになることが多かったです。

──本作はそうしたご経験からなのか、前時代的な家族観の持つ親和性や「大きな物語」をある意味否定して、新しい物語を描こうとしているように感じました。

そうですね、新しい物語を描こうとしているし、「大きな物語」の否定は、意識しています。今回のカンヌで海外の人から指摘されておもしろいと思ったのは、「日本映画で描かれる家族像はSweet(甘くて優しい家族像)なものなのに、あなたの映画で描かれる家族はすごくBitter(過酷な現実)のように感じる」と言われたことです。同時に、それは西洋の人から見ても「新しい家族観」だと感じてもらえたようで、彼らにとっても馴染みやすかったようですね。 でもそうした家族を描くのは、実は日本映画の伝統なんですよ。どの監督も繰り返し家族を描いていますけど、小津安二郎の『東京物語』の家族なんて本当にビターです。だって、田舎から両親が出てきたのに、実の子どもたちは毎日の生活に追われてすごく冷たくて、唯一優しくしてくれたのが、死んだ息子の嫁さんだった……という、すごいビターな世界観で。だからこそ小津の映画は今でも「現代的な映画」として世界で受け止められている。

──確かにそうですね。『東京物語』は、形骸化した過酷な「家族」の現実もリアルに描きつつ、血縁関係のない他人同士が“家族のような関係”になっていく「その先」や希望も描いていますね。

それは、小津安二郎の家族観でもあったんでしょうね。『東京物語』で描かれていた「大きな物語の喪失」というのは、現代においても大きなテーマだと思っています。なのに、そこからなぜか日本映画はどんどんよりスイートな家族観へと傾斜していきました。特にいまの日本社会での個人を描こうとすると、どうしても「家族」というフィルターは通さずにはいられない。欧米と比べても伝統的な家族観が強く残っていますし、政権与党もそれを推進にしているような国であるわけだから、そこで映画が家族をどう扱うのか、描いていくのかは重要だと思うんです。

これは僕の勝手な人間観や社会観ですが、本質的に人間は孤独であるし、意味があって生きている訳ではないと思うんです。もともと生命体が生まれて偶然の化学反応が起きた結果、生命が生まれてきたけれど、そのこと自体には何の意味もないし、自分たちが生まれて死んでいくのも、意味がある訳ではない。 でも人間は知性を持ってしまったので、何も根拠も意味もなく生きるのはつらいわけじゃないですか。実は自分が生きていることに何の意味もなくて、ただただ「偶然」に小突き回されながら生まれて死んでいくだけなんて。だから、みんな信仰によって生きる意味を見出したり、家族という共同体に守られ、自らの孤独を忘れようとする。ただ、現代社会というのは、宗教もだんだん力を失っていって、個を抑圧することで成立した家族制度も揺らいできています。それ自体はいい悪いじゃなくて、そうした流れの中で、おそらく現代は、自分ひとりで自分自身の孤独や生きることの意味と向き合わないといけない時代にますますなっていると思う。それが、自分が映画を撮る上での大きなモチーフになっています。

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映画『淵に立つ』©2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMAS

誰もが映画を撮れる時代だからこそ必要とされる作家性と批評性

──これまでどこかで感じてきた孤独感なり違和感が、創作のベースになっている部分はありますか。

いわゆる中2病なのかもしれないけど、思春期の頃は、具体的に何があったわけではなく、孤独感を感じていました。自分は一個の脳みそ、一個の肉体であり、世界というものは五感が集積した情報にしかすぎないと初めて意識した頃ですね。いわゆる独我論というやつで、自分が死んでしまえば世界は消えてしまうと思った瞬間に、ものすごく「ああ、自分はひとりだ」と思いました。でも、そういった孤独は本質的に埋めることはできないと思っています。ただそれを忘れることはできます。友人関係であったり、映画をつくることで、騙し騙し生きていくしかない。考えても答えはでませんから。でも生きていると、「ああやっぱり自分は絶対的に孤独なんだ」と気づいてしまう瞬間って、誰にでもあると思うんです。だから、そうした瞬間を描いて作品にしていきたいなと思っています。

映画『淵に立つ』撮影現場の深田晃司監督 ©2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMAS

映画『淵に立つ』撮影現場の深田晃司監督
©2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMAS

──孤独を実感する瞬間ですか? 孤独を忘れられる瞬間ではなくて? その二択でどちらを選択するかによって、作家性が分かれるのかもしれませんね。

その両方だと思います。結局は自分にとって本質的だと信じられることをただ繰り返し描いていくことしかできないのですが。前作の『さようなら』では死ぬということをモチーフに描いたんですけど、<メメントモリ>、つまり死について考えること、死そのものをモチーフにした作品がどうして古今東西作られ続けてきたのかを考えると、結局人間はいつか死んでしまうけど、死ぬことを事前に経験することは本質的に不可能ですよね。つまり体験不可能な「死」をどうやって生きている内に受容していけるか。死を描いた芸術作品は、そういった死の予行練習の役割を果たしているとも言える。芸術にはそうした役割があるんだろうなと思います。 孤独についても、多分同じことがいえると思うんです。孤独であることにこれだけ苦しめるのは、多分人間だけだと思うんです。それに気づかないで死んでいくことができれば、幸せなんだと思うんです。でもふとした瞬間や予測していなかった出来事によって、気づいてしまう瞬間って、人生において何度か起こると思うんですね。例えば離婚した人、家族や友人に先立たれる人……。何もなくともふと感じるかも知れない。誰もが人生のどこかのタイミングで対峙するかも知れない孤独を、映画が前もって描いておくということは、悪いことじゃないんじゃないかなと思っています。人間が人間であるがゆえに訪れるメンタル的なクライシスの予行練習になると思うんですね。というか、そうした作品を撮っていきたい。そんなことを最近は考えています。

──深田監督作品からは、必ずしも個人を救済しない「家族の神話性」をファンタジーとして描かないという意思のようなものを感じさせますね。

大きい物語っていうものは、あまり信じたくはないですよね。例えば歴史ひとつとってみても、いわば、それは幻想でしかないと思う。でも、大きな物語や神話があったからこそ、その中で個人の問題を忘れさせることで、なんとか人間は生きてこれた部分があるとは思います。一方で、それはどうしても個の抑圧や排斥と裏表でした。ただもう時代は変わってしまった。これからはいかにして個が個として個のままで生きていくかということが大事で、問われている時代だと思うんです。なのにフィクションがいつまでたっても、“大文字の歴史”や神話性を無邪気に肯定しているのは、いかにも前時代的なんじゃないかと思っています。