創成期の映画館は賑やかだった
――物語の終盤、成田凌演じる俊太郎はしゃべりによっていろいろな作品を組み合わせて、まったく新しい映画を生み出してしまう。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(88年)を思わせる感動的なシーンになっていますが、あんな荒業は現実的にありえたんでしょうか?
ありえたと思います。いまではいろいろな映画のシーンを繋ぎ合わせて上映することは著作権的にもNGだし、許可なくそんな乱暴なことはできないという常識もあります。でも、当時はまだ著作権という概念も映画に対する共通認識もありませんでした。100年以上の歴史の中で、“映画”というものに対するある程度共有できる概念が出来上がってきた。
活動写真と呼ばれていたころの映画は、見世物の一種だったんです。プロの弁士にとって一番重要なことは、目の前にいるお客さんたちをどう楽しませるかということでした。この映画のテーマは…ということは関係なかった。お客さんたちが盛り上がらなければ、別の話に作り変えておもしろがらせたんです。なので、いろいろな作品のフィルムを繋ぎ合わせて、新しい物語を語る弁士がいてもおかしくはありません。実際にそんなことがあったかどうかは分かりませんが。だいたい、同じ一本の映画であっても、弁士によってまったく違う映画になったと言われているんです。あのいろいろなカットを組み合わせてしゃべるシーンは大変な手間がかかりました。片島さんがどの映画のどのカットを使うか考え、台詞のひとつひとつを頼光さんと相談しながら組み立て、成田さんに練習してもらったんです。いわば、みんなの合作です。弁士のすごさが伝わるシーンになったんじゃないでしょうか。
――『カツベン!』を完成させたことで、周防監督が映画について新たに気づいたことがあれば教えてください。
映画にまだ音がなかった時代の映画館は、じつはとても賑やかだったということですね。活弁がおもしろければ、お客さんは拍手をし、歓声を上げ、逆につまらなかったときには罵声を浴びせていたんです。それに怒った弁士は、お客とケンカになったりもしたようです。劇場はライブパフォーマンスの場であり、みんなが自由に声を出せる場所でもあった。僕にとって、それはとても新鮮な発見でした。
――映画館で初めて観た映画のことを、周防監督は覚えていますか?
幼いころに親に背負われて観た記憶はありますが、何を観たかは覚えていません。でも友達同士で初めて観に行った映画のことはよく覚えています。小学2年生の時、学校の先生から「いい映画だから、観てきなさい」と文部省推薦の文芸映画の招待券をもらい、友達と一緒に2つ先の駅にあった“新丸子文化劇場”という映画館へ行ったんです。2本立ての上映になっており、併映が『モスラ対ゴジラ』(64年)でした。それで僕らは最初に観た『モスラ対ゴジラ』に大興奮してしまい、もう一本の映画は観ずに帰ってしまった。それ以来、僕は怪獣映画に夢中になりました。肝心のもう一本の映画は、何だったのかも、先生にはどう話したのかも覚えていません。でも、僕が映画にハマるようになった大事な体験でもあるんです(笑)。
取材・文/長野辰次
撮影/山本光恵
1956年、東京都生まれ。高橋伴明、若松孝二らの元で助監督を経験後、小津安二郎へのオマージュ作『変態家族 兄貴の嫁さん』(84年)で監督デビュー。『ファンシイダンス』(89年)で一般映画に進出。『シコふんじゃった。』(91年)、『Shall we ダンス?』(96年)で映画賞を総なめする。『それでもボクはやってない』(07年)は刑事裁判、『終の信託』(12年)は終末医療の在り方を描き、大きな反響を呼んだ。ローラン・プティのバレエ作品を映画化した『ダンシング・チャップリン』(11年)、上白石萌音が主演した『舞妓はレディ』(14年)も監督した。
一流の活動弁士を夢見る青年・俊太郎(成田凌)は、小さな町の映画館“靑木館”に流れつく。隣町のライバル映画館に、客も人材も取られて閑古鳥の鳴く靑木館に残ったのは、“人使いの荒い館主夫婦”、“傲慢で自信過剰な弁士”、“酔っぱらってばかりの弁士”、“気難しい職人気質な映写技師”と曲者揃い。雑用ばかり任される俊太郎の前に突如現れる大金を狙う泥棒、泥棒とニセ活動弁士を追う警察、そして幼なじみの初恋相手まで現れる。俊太郎の夢、恋、青春の行方は――?
監督:周防正行
脚本・監督補:片島章三
出演:成田凌 黒島結菜 永瀬正敏 高良健吾 音尾琢真 竹中直人 渡辺えり 井上真央 小日向文世 竹野内豊
活動弁士監修:澤登翠
活動弁士指導:片岡一郎 坂本頼光
配給:東映
2019年12月13日(金)公開
©2019 「カツベン!」製作委員会
公式サイト:https://www.katsuben.jp/