脚本はガイド。現場のやりとりが脚本を超えて作品を豊かにする
池ノ辺 監督はこれまで、ずっと脚本家として仕事をされてきて、その脚本を誰か別の人が監督として映像化してきたわけですが、今回は自分で脚本を書いて、自分が監督するという流れでした。脚本の書き方に今までと何か違いはありましたか?
伊藤 脚本だけ担当していた時、役者さんやスタッフからは、あまり書かれていない脚本だとよくいわれていましたが、今回も一緒でした。
池ノ辺 それはどういう意味ですか。
伊藤 映画というのは総合芸術で、そこに参加している一人ひとりが自分たちのビジョンとか想像力を持ち寄って、一つの映画を豊かにしていくことを目指す、そういうものだと思うんです。それが一番良い作品が生まれる瞬間だと思っているので、脚本上で全てを書き込んでしまうのではなく、そうしたものが入る余地としての余白とか行間をたっぷり入れた脚本になってしまう。
今回自分で監督をするという時には、私は脚本家としてではなく監督として現場にいるわけですから、ある程度書き込んでもよかったかなとも思ったんですが、やはりスタッフや役者の皆さんに質問をされて答えるというコミュニケーションは大事だと思ったんで、結局いつものようになりました。
池ノ辺 そうしたコミュニケーションの結果、脚本と全然違うものができるということもあるんですか。
伊藤 むしろ、そういうことだらけの気がします。それを自分も望んでいますし。私にとって自分の脚本というのは、自分を動かし現場を動かすための、そしてスタッフやキャストたちとコミュニケーションをとるための最初のガイドでしかないと思っています。もちろん自分の中でぶれない軸はちゃんと一つ持っていないといけないでしょうけれど、基本的には“変わる” というのはみんなからのアイデアがたくさんもらえて豊かになったということですから、私にとっては喜ばしいことです。
池ノ辺 すごく素敵ですね。
伊藤 それは、これまで脚本家としてだけでは体験できなかった、監督をやっていて初めて体験できる楽しい部分だと思います。
池ノ辺 監督は美術スタッフの経験もあるんですよね。そのせいか、色づかいとか映像の一つ一つがアートのように感じました。
伊藤 確かに色に関しては思い入れがあるような気がします。たぶん子どもの頃から色に敏感に興味を持っていた人間なんです。ですからキャラクターを表現できる色を衣装合わせなどで見つけ出していったり、色の合わせ方も気にかけています。
池ノ辺 ところで、劇中で美々ちゃんが見ていたアニメは?
伊藤 「魔法の天使クリィミーマミ」ですね。
池ノ辺 なぜあれを使ったんですか?
伊藤 「クリィミーマミ」は私が子どもの頃に大好きでよく見ていたアニメーションです。今回の作品では、市川実日子さん演じる詩織さんが、何か作品を通して娘に豊かさを伝える瞬間が描けたらいいと思ったんです。そして詩織さん自身が好きで子どもの頃に見ていたものを、その娘が見て好きになる。そこから工夫してドレスや魔法の杖を作る。私は作品を作る人間ですから、そんなふうに作品を通して人がコミュニケーションしてつながるというのが素敵だと思って使いました。そしてそのためには実在するアニメであることがすごく重要だったんです。
池ノ辺 監督はこれまで映画の現場で美術も脚本もやってきてよく知っているせいか、一つ一つのものや人がつながっているというところがすごく丁寧に表現されてますよね。しかも好きなものに囲まれているというのが、何かあたたかくていいですね。
伊藤 確かにそうですね。今回ご一緒した坂口さんはもちろん、齋藤飛鳥さんも実日子さんもすごく素敵な人たちで、前作を撮っていたときにも感じていたんですが被写体を好きになって撮れるというのはものすごく幸せなことだなと思うんです。きっとこちらの愛情って映画にも映り込みますよね。