映画プロデューサーとして、夢を現実に
池ノ辺 デストリビューターとして、20年ほど買付の仕事をされて、その後ご自分で、ヨーロッパを拠点とした映画製作会社を立ち上げられました。
吉崎 当時は、映画界でインターナショナル・プロデューサーになるためには、ハリウッドのメジャーに入り込むか、自分の会社を作るかのどちらかでした。ハリウッドの映画界でも女性プロデューサーは2、3人、それが外国人ともなれば、ほとんど無理でした。でも自分で会社を作るならなんとかなるのではないか。そんなところからの出発でした。
池ノ辺 会社ができて割とすぐに、共同製作された『クライング・ゲーム』(1992)、『ハワーズ・エンド』(1992)が、アカデミー賞を受賞したのは、大きいですね。
池ノ辺 会社立ち上げからこれまでで、一番大変だったことは何でしたか?
吉崎 一番大変だったのは、120万ドルの損を出したことですね。これは私自身の失敗というよりも、イギリス政府が突然政策変更をしてきたために、考えていた投資ができなくなったことから起きたんですけど、未婚の母だし、子供の父親からの援助もありませんでした。それをなんとか乗り切ったというところが一番大変でしたね。
池ノ辺 その乗り切った力ってどこから出てきたんですか。
吉崎 だって、乗り切るしかないじゃないですか。ラッキーだったのは、90年代は日本がまだお金を持っていた時代だったんです。だから自分の会社を作るのも割と簡単だった。何も知らない一海外駐在員が、お金を出してくださいと、いうことができた。住友商事などに、姉の伝手で会いに行って、ダメもとで頼んだら、すぐに6,000万円出資してくれたんです。そういう時代だったんです。
池ノ辺 でもそれは吉崎さんのプレゼンテーションに、お金を出そうと思わせるような力があったからでしょうね。
吉崎 確かに、そうやってチャンスを掴むというのは、私の才能だと思ってます。同時に、当時は、メセナという、企業が芸術文化活動を支援するという社会貢献が広がり始めていた頃です。当時、住友商事は、ソニーがコロンビア映画を買収したように映画会社を買収しようとしていたんです。
映画に興味があるというよりも、どちらかといえばスタッフのリクルート目的だったと思います。そこに、外国映画を製作する会社の株主オファーが6,000万円できた。その金額なら、損したところでどうってことはないというので、OKしてくれたのだと思います。
池ノ辺 いろんな事情はあるにしても、やはり魅力があったからこそ、そこに投資しようと思ったんでしょうね。まさに、波瀾万丈、本のタイトル通り、嵐を呼んじゃったんですね。
インタビュー / 池ノ辺直子
文・構成 / 佐々木尚絵
写真 / 吉田周平
映画プロデューサー
大分県出身。高校卒業後、イタリア・ローマに留学し映画学校で学ぶ。
1975年、日本ヘラルド映画社に入社。ディストリビューターとして欧州映画日本配給権の買い付けに携わる。『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988、ジュゼッペ・トルナトーレ監督)の日本配給権取得により日本でベストディストリビューター賞を受賞。配給買い付け業の傍ら、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』(1983年)の全契約を取りまとめる1992年、映画製作会社NDFジャパン設立。
製作投資に共同製作をした代表作として『裸のランチ』(1991年、デヴィッド・クローネンバーグ監督、Genie 最優秀映画賞他)、『ハワーズ・エンド』(1992年、ジェームズ・アイヴォリー監督、アカデミー賞9部門ノミネート、主演女優・脚色・美術賞受賞)、『クライング・ゲーム』(1992年、ニール・ジョーダン監督、アカデミー賞6部門ノミネート、脚本賞受賞)、『スモーク』(1995年、ウェイン・ワン監督、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)などがある。1995年 NDFインターナショナルを英国で設立。
『カーマ・スートラ/愛の教科書』(1996年、ミーラー・ナーイル監督)『バスキア』(1996年、ジュリアン・シュナーベル監督 『チャイニーズ・ボックス』(1997年、ウェイン・ワン監督 )『オスカー・ワイルド』(1997年、ブライアン・ギルバート監督)、『タイタス』(1999年、ジュリー・テイモア監督)等の世界的なヒット作を製作。