Jul 23, 2022 interview

アカデミー賞を獲った日本人プロデューサーの愛と闘いを綴った『嵐を呼ぶ女』の著者 吉崎道代が語る 夢を現実にする力

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狭き門をこじ開け、ディストリビューターとなる

吉崎 私の場合は、ローマの映画学校時代に、「キネマ旬報」にイタリア映画の監督たちの記事を執筆してたので、その縁で、外国映画を配給する日本ヘラルド映画を紹介してもらいました。それが、当時の私は日本の社会の習慣をよく理解していなくて、社長面接に行くのにお尻が見えそうなくらい短いミニスカートをはいて行ったんですよ。イタリアだとみんなそんな感じなので、もうハデハデでした。その格好を見た母から、あまりにもひどくてお隣にも恥ずかしいから軒の下を歩いて行ってちょうだいと言われたくらいで(笑)。

池ノ辺 面接はどうだったんですか。

吉崎 社長はユーモアのセンスがあって、その格好も面白がってくれて採用になりました。これで夢に近づいたと喜んで出社したんですが、仕事の内容は思っていたのとは違ってたんですよ。

池ノ辺 どんな仕事だったんですか。

吉崎 国際部というところに配属されて、自分で映画の買付ができるようになるのかと思ったら、ヨーロッパの現地の買付会社とのコンタクトが仕事で、ですからレター書きばかりのデスクワークだったんです。それで8カ月で嫌になってしまって‥‥。

もう辞めようと思って、その前に休暇を使ってローマに行ったんです。映画製作会社で働けないかと思って。でも、いくらローマの映画学校を出ていても、女性であり有色人種の私には、仕事はありませんでした。がっかりして日本に戻って辞表を出そうとしたら、なんと上司から、今度、新会社を作るので、そちらの重役にならないかというオファーをされたんです。

池ノ辺 すごいですね。

吉崎 そのヘラルド・ポニーという会社は、日本のビデオカセットの市場を見越して作られたもので、当初は社長の石田達郎氏、副社長の原正人氏、そして社員兼重役の私の、3人の会社でした。まずは、ビデオカセット用に、ヨーロッパ映画の名作を買付から始まって、後には、ヘラルド・ポニーと日本ヘラルド映画のヨーロッパ総代表として、イタリアに駐在することになりました。まさに、自分が願っていたインターナショナルな映画界の土俵に上がる、第一歩でしたね。

当時、フジサンケイグループの鹿内春雄氏、石田氏らは、官僚社会の弊害を壊せるのは“アバウト精神”だ、エンタテインメント業界は“アバウト”でなければ成功しないという理念のもと、アバウト会というものを作っていました。おそらく、彼らは私の中にその精神を見出して、信頼して任せてくれたんじゃないかと思ってるんです。

池ノ辺 吉崎さんのご本を拝読して、愛に満ち溢れていて、エネルギーがすごくて、とても圧倒されたんですが、チャンスを掴んでいくその力は、どこからくるんでしょうか。今でも、映画業界に入るのはなかなか大変ですし、せっかく入っても、続けられなくて途中でやめてしまったりする人も多いんです。

吉崎 それは意気地がないからですよ。講演でも時々「どうしたら希望する仕事に就けるのか」と質問されますが、私の本にしても講演にしても、どうやったら希望の仕事に就けるのかのハウツーを語っているのではないんです。それは自分で考えないといけないこと。確固とした意志があれば、なんでもやれます。私は中学生の時に、下校の時に通るお寺に、「海外に行かせてください」と毎日のように祈願してました。

カズオイシグロ氏と企画打合せ(2016年)

池ノ辺 海外に行くというところが後には映画界で働きたいということにつながっていったんですね。

吉崎 確固たる意志を持つことは重要なんです。たとえば今、全世界で大ヒットしている『トップガン マーヴェリック』主演のトム・クルーズ。これまで、私は彼に関心がなかったんですが、彼は60歳にもかかわらず、未だに20代の様なボディを維持しています。彼はおそらく芸術映画にはさほど興味がない。それよりも大衆を喜ばせる映画で、自分はその第一線を保つんだという確固たる意志を持っている。すごいと思いました。だから、今は彼のことをとても尊敬してます。