Jul 12, 2016 interview

松竹株式会社 映画宣伝部 宣伝企画室長 諸冨謙治 氏
第2回:いきなり電話して、会ってもらえませんかと頼みました。

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池ノ辺直子の「新・映画は愛よ!!」

映画が大好きで、映画の仕事に関われてなんて幸せもんだと思っている予告編制作会社代表の池ノ辺直子が、同じく映画大好きな業界の人たちと語り合う「映画は愛よ!!」 新シリーズ、第2回。 今回は、学生時代からシネカノン入社までの話です。

→前回までのコラムはこちら

池ノ辺直子 (以下 池ノ辺)

さて、私は諸冨さんとはかなり古い付き合いです。

でも、知らないことがあったの。

巷の情報で聞きました。

映画業界ではすごく珍しい大学を出られたとか。

どこの大学の何学科だったんですか?

諸冨謙治 (以下、諸冨)

一橋大学の法学部を出ました。

池ノ辺

ひゃあ、何を専攻していたの?

諸冨

国際政治です。

池ノ辺

こ、国際政治?何になろうと思ってたんですか?

諸冨

一番真っ当に勉強する人が目指すのは外交官ですね。

池ノ辺

諸冨さん、外交官になりたかったの?

諸冨

いやいや、ほんの3秒くらい考えたことはありますけれど(笑)ちょっと調べたら、とてもじゃないけれど自分には無理だなと。

在学中から映画・音楽・文学とカルチャー方面に浸っていて、やはり仕事は固い系の仕事ではなく、文化方面に行こうかなと。

まぁ今では外交官の代わりに映画人として世界と文化交流していると思い込んでますが(笑)。

それでも大学の主ゼミの専攻がアメリカ政治史で卒論を出さなくてはいけないので、テーマはちょっと無理やりですけど、ハリウッドの赤狩りにしました。

僕、ハリウッドの1940~50年代のクラシック映画が大好きなんですけど、その転換となったのが、1940年代後半から50年代中頃にかけて、共和党上院議員のマッカーシーが軸となって行った反共産主義による政治活動、いわゆるマッカーシズムですね。

これによって、多数の政治家や役人、言論人、芸術家、映画人などが親共産主義者として告発され、地位や仕事を失ったのですが、このあたりのことを書きました。

あと、いまは東大で教鞭をとっているフランス文学の野崎歓さんが映画のゼミを持っていて、副ゼミでそちらにも所属していたんです。

池ノ辺

同席しているライター(金原)さんが、野崎ゼミなら、漫画家の黒田硫黄さんと知り合いかってきゃあきゃあ叫んでるけど。

諸冨

ええ、同じゼミでしたね。

僕は黒田を大王と呼んでいるんですけど、大王は在学中から漫画を描いて、デビューもして。

『茄子 アンダルシアの夏』という47分の短編なんですけど、カンヌ国際映画祭の監督週間に日本のアニメとして初めて出品された作品があるんですが、その作品の原作者です。

あと、木皿泉さんが脚本を書いて、日本テレビで放送されたドラマ「セクシーボイスアンドロボ」も彼が原作者です。

あと、同じ漫画家で「くらたま」こと倉田真由美さんも同期ですね。

池ノ辺

一橋って勉強ばっかりしている印象だけど、芸術系の人も結構いるんですね。

諸冨

基本的には官公庁や銀行、証券に行く人が多いですから、僕はドロップアウト組です(笑)。

池ノ辺

諸冨さんは、大学卒業して、最初は何の仕事に就いたのですか?

諸冨

現在のADK(アサツー・ディ・ケィ)です。

当時は旭通信社という名前でした。

池ノ辺

ADKといえば「ドラえもん」ね。

電通、博報堂に次ぐ大手の広告代理店じゃないですか。そこでは、何をやっていたんですか?

諸冨

プロモーションの企画と運営です。

その意味では、今、松竹でやっている仕事とあまり変わりません。

商品のプロモーション企画を立てて、キャンペーンを仕掛けたり、展示会をやったり、イベントを運営したり。

池ノ辺

新卒で映画会社は受けなかったんですか?

諸冨

それが全然受けてないんです。

僕はもともと音楽が好きで、今でも映画よりも好きかもしれない(笑)。

音楽業界中心に就活して、ツブシが効きそうだから広告も受けておくか、くらいのノリで。ただやはり音楽、特にパッケージを売るというのは仕事としては大変ですね。

映画には物語があるし、さらに時間や体験を売るという部分が大きいと思います。

今、新卒から20年以上経って、映画の宣伝は改めて面白いなと思います。

池ノ辺

広告は?

諸冨

ADKには約3年いたんですが、初めて配属された部署の部長が、これまで企画書を千本は書いたという強者で。

とても優しい人でしたが、日々鍛えられて、パソコン・腕時計・携帯・家電・食品・玩具と様々な業種のプロモーションを担当しました。

「諸冨くん、映画が好きらしいから、これもできるでしょ?」とCICビクターの仕事もありました。

当時はまだVHSの時代で、今のNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンさんですね。

池ノ辺

どういう宣伝マンだったのですか?今と同じように腰が低い代理店のお兄ちゃん?

諸冨

いやいや。もう、生意気盛りでしたから(笑)。

「僕はきちんとスーツ着てクライアントに日参する営業マンじゃなくて、企画を考えて運営までこなす消耗部隊のスタッフですから」って、入社一ヶ月くらいでスーツも着ないでバリバリ働いていましたね。

徹夜も平気で、プレゼンもガンガンこなして、得意先にも平気でズケズケものを言っちゃう青二才で。

そうしたら3年経った頃に「おまえ生意気でちょっと面白いから、スタッフじゃなくて営業をやれ」と言われたんです。

「代理店というのは本来、数字を作る営業が花形で、社内ではポジションが強いんだ」と。

今考えればその通りなんです。

クライアントとがっちり向き合って売上も立てながら、クリエイティブからプロモーション、メディア提案まで、どういう風に予算と仕事を配分するかを任されているのが営業なんですから。

ただ、当時は何もわかっていないから、「そんな毎日スーツ着て得意先に通うなんて嫌ですよ」と。

池ノ辺

え? 花形、断っちゃった?

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諸冨

僕は本当のところ、何をやりたいんだろうと改めて考え直しました。

就活の時は、甘いというかとりあえずどこかに入社しておこうぐらいにしか考えてなかった。

で、実際、社会人になってみて、自分は宣伝に向いているなと、確かな感触を持てたんです。

広告のプロというのは、語弊があるかもしれませんけど、地に足をつけずになんでも売り切らなくちゃいけないわけです。

ビールでも家電でも車でも、これを売れと言われたら、クライアントさんとは違う立場から、売りどころを必死に考えて世に向けて送り出す。

それはそれで面白い仕事ではあったんですけど、自分が自信を持って「これだったら他の人に負けないくらい上手く売れる」と言える商材ってなんだろうと思ったときに「やっぱり映画かな」と思ったんですね。

池ノ辺

おおおー。

突然、映画が浮上したんだ。

諸冨

その昔、池ノ辺さんと仕事の後に飲みに行ったときにポスターの話をしたんですが、覚えてます?

広告はどんなに頑張って仕事をしてカッコいいポスターを作っても、女の子の部屋には貼ってもらえない(笑)。

でも、当時はアート系映画が盛んで、単館映画も面白いものが多くて、そういう作品の映画のポスターは、海外オリジナル版じゃなく日本でデザインしたものでも女の子たちがわざわざ劇場で買って、自分の部屋の壁に飾ってくれていた。

それって、宣伝マンにとってはすごく嬉しいことだと。

池ノ辺

ああ、ありました、そういう話。

要するに、商品のポスターはめちゃくちゃ頑張って作っても女の子の部屋に貼ってはもらえないけど、映画のポスターだったら、カッコいいものを作れば、貼ってもらえると。

諸冨

ええ、あくまでも映画の公開を告知するための宣材物のひとつなのに、出来が良ければ、映画のポスターは一作品として残っていく部分があるんです。

予告編もそうですよね。

池ノ辺

チラシだって、デザインが良ければ、みんな、ファイルして、とっておくものね。

諸冨

ええ。

僕は、もちろん映画に関しては人並み以上に好きだったという自負はありますけど、それだけでなく、見た人の記憶にずっと残る映画のポスターや予告編を作る、そういう残る仕事をしたいなと改めて思ったことが、次のステップになりました。

池ノ辺

それで、次にシネカノンにいくわけですね。

どうやって、代表の李鳳宇(リ・ボンウ)さんと出会ったのですか?

諸冨

なんで、いきなりそうなるんだという話ですが、1997年当時、ぶっちゃけて言いますと、僕には東宝も松竹も東映も、つまり、邦画のメジャー映画会社の作る作品が全然魅力的に思えなかった。

今、松竹にいる僕がこう言ってはなんなんですが(笑)。

池ノ辺

もうハリウッド映画全盛期で、邦画が押されまくりの時期だったからね。

諸冨

一方、シネカノンは『月はどっちに出ている』を制作して、世の中をちょっと騒がせている時だった。

池ノ辺

私は、その『月はどっちに出ている』から、李さんとのおつきあいが始まったの。

もともとは、ケン・ローチの映画をはじめヨーロッパの作品の日本上映をしていたところ、李さんが、「日本映画をやりたいんだ」と言い出して、制作だけじゃなく、劇場も含めてやっていきたいんだという考えを持っていて、そのときに、映画の宣伝会社のP2の代表である照本さんが声をかけてくださったの。

諸冨

あの作品が単館映画としては4億円を超えるスマッシュヒットで、主要な映画賞も取って注目を浴びて。

さらにアミューズと一緒に組んで、渋谷に劇場を造ったのも大きかった。

当時のシネカノンは3本柱でやろうという話があって、一つは劇場、一つは邦画の制作、そして韓国映画。その3本柱でぐいっと行くぞというときに僕は入社して、非常に面白い時期を体験させてもらったと思います。

池ノ辺

そういうことをやるから来なさいと言われたの?

どういう経緯で入社がきまったんですか?

諸冨

旭通信社で3年経って、前出の直属の部長とはまた違う、もう一人尊敬していた営業部の部長から「俺のところに来い」と声がかかったわけです。

その部長は現在のADKの社長なので、ついていったらまた違う人生になっていたかもしれません(笑)。

池ノ辺

次期社長になっていたかもよ(笑)。

諸冨

で、そんなお誘いをわざわざ断って、「自分は映画をやる」と決めたとき、当時の映画業界を見回してみて、李さんが一番面白いなと思ったんです。

僕は26歳でしたけど、李さんもまだ30代だった。

池ノ辺

で、どうやって李さんと巡り合った?

諸冨

いきなりシネカノンに電話して、李さんに会ってもらえませんかと頼みました。

「僕は広告代理店の3年目の奴ですけど、僕を採るとすごくいいことがあるから。なんでもできるし、若いし、給料なんかは安くても構わない」と。

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池ノ辺

なんと、売り込み電話したんだ!?

諸冨

それで実際に入ったら、本当に給料が安くてびっくりしたんですけど(笑)。

それはそれとして、まだ26だから、ある程度、駆け出しの小僧になった方が良かろうと。

実際、当時のシネカノンは面白い作品を配給してました。

池ノ辺

どのあたりの作品を上映していたんでしたっけ?

諸冨

洋画でいうと、『フープ・ドリームス』というドキュメンタリーがかかっていたのを覚えてますね。

僕が入ったときはちょうど、クレイアニメーションの『ウォレスとグルミット 危機一髪』を直営の映画館である渋谷のシネアミューズと有楽町の直営の映画館、シネ・ラ・セットでかけるときで、「グッズを劇場で作って売りたいんだけど」と相談されて、「そんなの全然できますよ」と。

宣伝もパブリシティもやるし、ゆくゆくは制作もやりたいし、会社は直営の劇場も持っていて、ちっちゃいサイクルでしたけど入口から出口まで全部、自分たちでできる環境だったんですよ。

池ノ辺

ある種、理想的な環境よね。

作ったはいいけど、回す劇場がないっていうのは、邦画の監督やプロデューサーがぶつかる壁だから。

諸冨

当時はビデオが全盛期ですから、ビデオの売り上げを前提にした配給会社がたくさんあったんですけれども、やっぱり劇場まで持っているというのはシネカノン独特の面白さで、「とにかく僕を採ってください」とアピールしたら、「じゃあ。来週から来てよ」と。

池ノ辺

話が早い!

諸冨

って言いながら李さんが、「あ、来週は俺、カンヌ映画祭に行くから、戻ったころに来てよ」と言われ、4月末にADKをやめて、1997年の5月末にシネカノンに入社しました。

池ノ辺

どうなるか、わからないのに、4月で会社、辞めちゃったの?

諸冨

辞めてました。

いや、「採用されない方がおかしい」ぐらいに勘違いしてましたから。

バカだったんでしょうね、今でもそんなに賢くないけど(笑)。

そうだ、電話をする前に、一度、手紙を書いて送っていたことを、今、この瞬間に思い出しました。

池ノ辺

うちにも、そういう自信満々に電話してくる子、いっぱいいる。

でも、会ってみると、いうほど実力がなかったり、極めて非常識な子だったりして、諸冨さんみたいな人はめったにいない。

最近は電話じゃなくて、メールだったりしますけど。何が違うんだろう?

諸冨

うーん、なぜか李さんを口説ける根拠のない自信がありましたね(笑)。

もちろん、ネットが普及してない時代だから、シネカノンの主な配給作品は全部見て、関連した著作も全部読んだ上で、えいやっと電話をかけたんですけれど。

池ノ辺

その通りになったから素晴らしい。

では、激動のシネカノン時代の話は次の回にじっくり伺いましょう。

(文・構成:金原由佳 / 写真:岡本英理)


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PROFILE

■ 諸冨謙治(もろとみけんじ) 松竹株式会社 映画宣伝部 宣伝企画室長

1971年東京出身。大学卒業後、広告代理店旭通信社(現・アサツーディ・ケイ)でプロモーションを担当した後、97年シネカノンに入社。制作進行から宣伝まで主に邦画での宣伝業務を担当。2004年に東芝エンタテインメント(現・博報堂DYミュージック&ピクチャーズ)に移籍し、洋画(米国・欧州・アジア)・邦画と幅広く作品を担当。その後、CJエンタテインメント・ジャパンでマーケティングチーム長を経て、12年に松竹に移籍し、13年より現職。

池ノ辺直子

映像ディレクター。株式会社バカ・ザ・バッカ代表取締役社長
これまでに手がけた予告篇は、『ボディーガード』『フォレスト・ガンプ』『バック・トゥ・ザ・フューチャー シリーズ』『マディソン郡の橋』『トップガン』『羊たちの沈黙』『博士と彼女のセオリー』『シェイプ・オブ・ウォーター』『ノマドランド』『ザ・メニュー』『哀れなるものたち』ほか1100本以上。
著書に「映画は予告篇が面白い」(光文社刊)がある。 WOWOWプラス審議委員、 予告編上映カフェ「 Café WASUGAZEN」も運営もしている。
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