Dec 24, 2021 column

『ヴォイス・オブ・ラブ』で描かれる映画的でドラマティックなセリーヌ・ディオンの音楽と人生

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世界でもっとも愛されている歌姫。こんなキャッチコピーが似合うアーティストはそうそういるわけではないが、セリーヌ・ディオンは間違いなくそのひとりだろう。いくつもの特大ヒットを放っているが、やはり映画『タイタニック』の名シーンとともに記憶される「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」にとどめを刺す。絶唱ということ言葉がぴったりの、自身の声量をあますことなく披露する世紀の名バラードは、何度聴いても圧巻だ。ただ、この曲は誰もが知る名曲だが、実際のセリーヌ・ディオンがどういうアーティストなのか、生い立ちやデビューのきっかけ、そしてどのような変遷で人生を歩んできたのかは、彼女のヒット曲ほどには知られてはいない。

映画『ヴォイス・オブ・ラブ』は、そんなセリーヌ・ディオンのドラマティックな人生をモデルに描いたフィクションである。ラストに「セリーヌに捧ぐ」というクレジットは入るが、基本的に登場人物の名前も違うし、事実とは少し異なるエピソードも多い。それでも、彼女の類まれな才能がどのようにして花開いたのかが、本作を観れば伝わるようになっている。セリーヌ・ディオンのことをまったく知らなくてもストーリーに没頭できる内容となっているが、それでも彼女のヒストリーが気になってしまうだろう。やはりそういった意味では、あくまでもフィクションというスタイルであることを理解しつつも、セリーヌ・ディオンのリアルな生き様と照らし合わせながら観るのが正しい楽しみ方だろう。

本編の紹介の前に、セリーヌ・ディオンの実際のバイオグラフィーを紐解いてみよう。彼女は、1968年生まれ、カナダのケベック州出身。大都市モントリオールの郊外にあるシャルルマーニュという街で生まれ育った。いわゆるフレンチ・カナディアンといわれているフランス語の文化圏エリアであり、彼女自身もフランス系カナダ人である。セリーヌという名前は、フランスのシンガー・ソングライター、ユーグ・オーフレイが1966年にヒットさせた「Céline」に由来する。フォーク系のミュージシャンでもあった両親はともに音楽に精通しており、14人兄弟の末っ子として生まれたセリーヌも、幼い頃から音楽の才能を発揮した。そして、音楽プロデューサーのルネ・アンジェリルが彼女のデモテープを耳にしたことで、デビューのきっかけを掴むのである。

1981年に13歳の若さでデビューしたセリーヌ・ディオンは、カナダ国内で人気を博していく。1982年に初来日し、ヤマハ世界歌謡音楽祭で金賞を受賞。1984年にはフランスのパリにある名門オランピア劇場に最年少で出演を果たした。また、1988年にはヨーロッパで最も権威のあるコンテスト、ユーロビジョン・ソング・コンテストで優勝するなど、徐々に世界中でその名を広めていく。しかし、この当時はまだフランス語しかしゃべれず、発表した楽曲もフランス語曲ばかりだった。マイケル・ジャクソンに憧れを抱いた彼女は、英語圏を視野に入れて英語を猛特訓。デヴィッド・フォスターなどトップ・プロデューサーとタッグを組み、1990年に初の英語アルバム『ユニゾン』を発表。ついに全米でもチャートインし、世界的にブレイクするのである。

その後の活躍ぶりはいうまでもないだろう。1991年の映画『美女と野獣』の主題歌「ビューティー・アンド・ザ・ビースト~美女と野獣」をピーボ・ブライソンとデュエットし、アカデミー歌曲賞を受賞。1993年にはシングル「パワー・オブ・ラヴ」で初の全米No.1を獲得する。1995年放送のフジテレビ系ドラマ『恋人よ』の主題歌として発表した「トゥ・ラヴ・ユー・モア」は100万枚を超える大ヒットを記録し、日本でもトップ・アーティストとしての認知が広まった。そして1997年には映画『タイタニック』の一大ブームにより、「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」が代表曲となるのだ。この間、彼女を育てたプロデューサーのルネ・アンジェリルと、1994年に26歳の年の差婚を実現し、2001年には第一子をもうけた。2003年から5年間、ラスベガスのショーを実施して話題を呼び、2010年には双子を出産し、3児の母となった。しかし、2016年には最愛の夫ルネ・アンジェリルが逝去。それでもなお、精力的に活動を続けている。