ペルソナ/ノット・ペルソナ
ペドロ・アルモドバルはイングマール・ベルイマン監督の『仮面/ペルソナ』(1966) に大きな影響を受けたことを公言している。しかし『仮面/ペルソナ』の二人の女性による捕食的な関係と比べ、『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』のマーサとイングリッドはより対等で独立した関係にある。たしかに死の主導権はマーサにあるが、イングリッドは受動的な存在ではない。友人のためにベストを尽くすことを常に考え、それが自身の変化につながっている。
戦場ジャーナリストだったマーサにとって死はいつも隣にあるものだったのだろう。しかしイングリッドは違う。死に関する自身の本が好評を得たにも関わらず、身近な死を受け入れる準備はできていない。心が壊れてしまうギリギリのところでマーサと向かい合うジュリアン・ムーアの演技が素晴らしい。慎重に言葉を選んでいることが分かる声。ジュリアン・ムーアはトッド・ヘインズ監督の傑作『メイ・ディセンバー ゆれる真実』(2023) でも、ナタリー・ポートマンと鏡像関係、転移の関係になる役を演じていた(舌足らずな話し方が耳に残る)。イングリッド役にジュリアン・ムーアを推薦したのは、他ならぬティルダ・スウィントンだったという。ジュリアン・ムーアは演じるキャラクターの声を見つけることから役作りを始めるという。声質や話し方がそのキャラクターの生き方、人生を表わしている。ジュリアン・ムーアの演技は、ペドロ・アルモドバルやトッド・ヘインズ、ジェシー・アイゼンバーグの映画で新しいフェーズに入ったように思える。
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「小さい頃はみんなそうだった。犬でも恐竜でもおばあさんでも何にでも仮装できた。(中略)そして私たちはなぜか歳をとるにつれて、その可能性の感覚を失い、自分の信念を貫くことを奨励される。」(ティルダ・スウィントン)
ティルダ・スウィントンにとってマーサ役はベストアクトの一つとして記憶されることだろう。パフォーマンスの人生。ティルダ・スウィントンは変わり続けることを恐れないキャリアを送ってきた。流動性がないことにむしろ危機を覚えるというティルダ・スウィントンの哲学は、少女時代に「同じ惑星から来た人のように見えた」というデヴィッド・ボウイの姿勢に通じている。代表作の一本であり、ジェンダーや階級を自由に交換するサリー・ポッター監督の『オルランド』(1992) には、ティルダ・スウィントンの流動性の哲学が如何なく発揮されていた。『オルランド』はヴァージニア・ウルフの原作を元にする映画だったが、『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』においてヴァージニア・ウルフが所属していたブルームズベリー・グループの画家ドーラ・キャリントンのエピソードがでてくるのは、ペドロ・アルモドバルによるティルダ・スウィントンのキャリアへのリスペクトの表明とも受け取れる。
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イメージの流動性。特に尊厳死を決意してからのマーサは、ティルダ・スウィントンにしかできない超越的で幽玄なイメージへと変貌していく。人生の“最後の空間”として選ばれたミッドセンチュリーのモダニズム建築の家は、マーサ=ティルダ・スウィントンによるパフォーマンスの“ステージ”となる。マーサはこの世から少し離れた幻のように空間を移動する。静かな舞踏のような室内劇。二人だけの舞台。イングリッドは消えゆく魂と対話をする。二人の間に調和が起こる。この空間でイングリッドはマーサの美学を精神と肉体に浸透させていく。周囲の森林と調和するオープンな窓ガラス。大きな窓に映り込む二人が強い印象を残す。撮影はマドリードの北西に位置するサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルにあるSzoke Houseで行われている。ペドロ・アルモドバルはこのモダニズム建築の変わった角度や傾斜した天井に強く惹かれたという。イングリッドは階段の下からマーサの部屋の赤い扉を何度も確認する。ここにアルフレッド・ヒッチコックの映画のようなサスペンスが生まれる。赤い扉が閉められたとき、マーサはもうこの世にいないのだ。
マーサとイングリッドの顔半分が重なり合うショットがある。ベッドに横たわった二人が同じタイミングで瞳を閉じる。それは魂の交換の完了を意味する。恐怖と安堵。変貌と転移。『仮面/ペルソナ』への明確なオマージュだが、ここには優しい眠り、約束の眠りに導かれていくような感覚がある。穏やかな眠りの向こう側で、二人は自己を超克していく。
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