Apr 12, 2024 column

『プリシラ』 無邪気さの喪失、自分の中の少女が死ぬことを拒むプリシラ

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『プリシラ』はソフィア・コッポラのフィルモグラフィーを総括する集大成的な傑作だ。出産のときでさえ、興奮するエルヴィス・プレスリーをよそにバスルームでマスカラを塗り、ヘアを整え、フル装備で備えたというプリシラ・プレスリー。エルヴィスの婚約者~妻としてパブリックイメージをコントロールしていく姿は、まさに自分の舞台の“ステージング”だ。

ソフィア・コッポラはプリシラの数奇な人生に自身とのパーソナルなつながりを発見している。ティーンの少女たちを描いてきたソフィア・コッポラ。ゆっくりと忍び寄ってくる人生の影、無邪気さの喪失、そして少女時代へのさよなら。陰影の深い撮影には、人生の浮き沈みを体験するような映画の味わいがある。それらすべてを秋の光のようなやわらかさで包み込む本作に、プリシラ・プレスリーは泣き崩れてしまったのではないかと推測する。

少女の視線

アイライナーを引き、つけまつげを付け、リップを塗る。フル装備のプリシラが毛足の長いピンク色のカーペットの上を歩く。まるでこれからレッドカーペットで繰り広げられるファッションショーへの準備を描いているかのような『プリシラ』のオープニングは、どこまでもソフィア・コッポラ的なイメージに溢れている。ヴェルイサイユ宮殿でファッションの世界に変えたマリー・アントワネットのように(『マリー・アントワネット』/2006)。しかし深いピンク色のカーペットを一歩一歩ゆっくりと踏み込んでいくプリシラ(ケイリー・スピーニー)の足どりには、どこか重さがある。プリシラ自身がラグジュアリーな絨毯の深みに沈み込んでいくような不自由さがある。エルヴィス・プレスリーが母親のために購入した聖地グレイスランド。無人の屋敷。ラグジュアリーな内装の裏側に不穏な空気が立ち込めている。

14歳のプリシラが登場するファーストショットは西ドイツのダイナーだ。ダイナーの片隅でストローが挿されたコーラの瓶を飲んでいるプリシラ。14歳のプリシラのあどけなく寂し気な背中は、言葉以上に多くのことを語っている。アメリカ空軍将校の義理の父親を持つプリシラは、家族と共に西ドイツに滞在していた。学校にほとんど友人もいなかったというプリシラ。ソフィア・コッポラは、孤独な少女の背中からこの物語を始める。プリシラの背中はその宣言、覚悟のようなショットだ。まだ何も知らないティーンエイジャーだったプリシラが見た世界。小柄なプリシラと高身長のエルヴィス。本作では2人の身長差が意図的に強調されている。背の高いエルヴィスをティーンエイジャーのプリシラが見上げる。そこにはカリスマへの憧れと共に大人の男性そのものへの不安や恐れがある。

『プリシラ』にはプリシラ・プレスリーによる原作「私のエルヴィス」とまったく変わらない“息遣い”がある。既に神話的だったアイコン、エルヴィス・プレスリーとの出会いによる胸が破裂しそうになるような高揚感。まるで時差ぼけがずっと続いているような世界(ソフィア・コッポラは日本を舞台にした『ロスト・イン・トランスレーション』/ 2003 で時差ぼけを漂う世界にいる若い女性をテーマにしている)。プリシラによる原作には、ティーンエイジャーのピンク色に火照った高揚感だけでなく、大人になったプリシラが少女時代には吞み込めなかった冷静な述懐、当時感じていた不安と恐怖、エルヴィス・プレスリーの心の代弁までもが、感情のジェットコースターのようにダイナミックに描かれている。この素晴らしい原作を読み、改めて本作を再見したとき、ソフィア・コッポラによる脚色の見事さ、原作の持つエッセンスを抽出していく手捌きに感嘆する。ソフィア・コッポラの作品の大ファンだというプリシラ・プレスリーがエグゼクティブ・プロデューサーやアドバイザーを担い、本作に全幅の信頼を寄せた理由がここにはある。