Jun 29, 2020 column

配信時代の変化が映画に問う100年をへての新たな課題

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この事態が観客側に突きつけてきているものも多い。それは「見る手段が増える」であるとか「映画館はどうなるのか」といった享受についての変革の話だけではなく、“見る”という行為そのものへの考え方の変化だ。

利点がわかっていても僕は『泣きたい私は猫をかぶる』を見たときに「映画館で見れなくてもったいない」と思ってしまった。ここまでのことを書いていて恥ずかしいが、つまり自分自身の中にもまだどこかにスクリーンと配信で“上下”があるのだ。どちらが良くてどちらはその下であるという意識。頭でそう思っていなくても心の中のどこかでそう感じていることになる。

(C)2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会
(C)2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会

迫力などの点ではもちろん差がある。だがそのことは“上下”という意識でわけることなのか。グラフで例えるなら横軸で考えるべき事であり、縦軸で考えることではないのではないか。しかし僕も、幾多の「配信映画は別」「今回は例外」としているような映画賞なども縦軸で考えてしまっている。

映画と映画ファンにとっての「これからへの変革」があるのだとしたら、まずはその“これまでの縦軸と横軸”の見直しと“これからの縦軸と横軸”を考え再構築する、意識そのものの改革ではないのだろうか。

(C)2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会
(C)2020 「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会

日本では『泣きたい私は猫をかぶる』が先行したが、コロナ状況の長期化が懸念される中では同じような切り替えに踏み切る作品が他にも現れるかもしれない。単に「一つのアニメ映画の出来事」という以上の、今年の邦画における大きな事件だ。そして同じ事件が世界中で起こり、それらの事件は多くの課題や命題へと繋がっている。興行という面においても、ビジネスという面においても、そして受け手意識においても、この数年でくすぶっていた映画を取り巻く送り手と受け手の数々の課題をあらためて考えさせる。突き詰めれば「映画とは何であるか」が100年ぶりに問われ再定義されようとしているのが今であるのかもしれない。見世物から劇映画に、サイレントからトーキーに、モノクロからカラーにと何度も変化は起こり、新しい事への感動も困惑も批判も起こってきた。近年はフィルムからデジタルへの変化でが顕著だ。それがプラットフォームにも及び、映画史最大級とも言える変化に直面している。

当然であるが、それはネガティブなことばかりではない。そこには多くの新たな可能性もある。それがこれまでと異なることであるがゆえにまだ見えづらく気づいていないだけだ。コロナ禍の影響によって先倒して起こっただけで、近い将来にいずれ起こっていた事だろう。“今だけの例外”ではない 。

長年で根付いてしまった意識そのものを考え直すことは難しいし、そこには不安もある。だがその変化が悪いことばかりであるとは思わない。それは『泣きたい私は猫をかぶる』が物語の中で描いていた大事なことでもある。この作品からそれを感じられたことは好機であったと思う。

文 / 岡野勇(オタク放送作家)