陰惨な事件とは、一家がその家族のひとりによって惨殺されることであった。この事件はまるで伝染病のように伝染していき、村全体が壊滅の危機の予感にさらされる。捕まった者たちは奇病に冒されており、やがて怪死を遂げる。皮膚がひどく爛れていたばかりではない。完全に主体性を失ったその魂のありようは抜け殻を想起させた。
自分の家族を皆殺しにすること。有り体に考えればそれは狂気に他らない。だが、狂気とは伝染するものなのか? 殺人病とも言うべきこの奇病はほんとうにウィルスによって感染するものなのか? 観客に混乱する隙を与えず、映画はひとつの筋道を与える。それは誘導=ミスリードと解釈することもできるし、時限爆弾のカウントダウンが始まったと捉えることもできる。筋道は既にその段階で枝分かれしている。さらに言えば、ここで無限に枝分かれする可能性に満ちた種子が蒔かれたのである。
疑心暗鬼に駆られる大衆は、自分たちの不安を抹消するために、たったひとつの悪を捏造する(昨年から今年にかけて日本芸能界を揺るがしたあるグループの解散劇が、どのような憶測を大量に流布したかを振り返っていただきたい。陰謀論に酷似した罵詈雑言の数々が、いかに一般常識を駆逐していったのかを)。いつからか森のはずれに住み始めた「よそ者」が怪しい。あいつは日本人だ。そもそも、なぜ、この村にやって来た? さまざまな噂話が先行する。あることないことが口にされ、それがバケツリレーされ、バケツに入っていたはずの水はいつの間にか、違うものに成り果てる。だが、誰も責任はとらない。とるはずがない。真実など、どうでもいいからだ。とりあえず、目の前の不安から逃避できればいいのだ。不安を否定するかわりに、身元不明者を否定する。その排他性と差別意識と、集団無意識の残酷さ(デマゴギーの独り歩きが、システムそのもののエゴイズムを暴走させている事実を、わたしたちはSNSにおける「炎上」によって嫌というほど目の当たりにしているはずだ)。
「あいつはよそ者で変わり者だ」
不安が不安を呼び人は狂気に走る
殺人病とは、病ではなく、あの「よそ者」による洗脳ではないか? たぶらかしだ、というおおよそ根拠などあるはずもない大雑把な仮説が跋扈する。主人公である警官は、悪夢さえみる。現実にはまだ会ったことのない「よそ者」の夢をみる。言うまでもなく、それは「よそ者」による洗脳ではなく、集団無意識による洗脳なのだが、この洗脳を嫌悪する者自身が洗脳されているという事態(それは主人公だけでなく、村全体、さらにはこの映画と観客の関係性にまで及ぶ)は、ミイラ取りがミイラになるより深刻で危険な事態である。
大衆が形成する社会の理不尽さ、落とし穴を凝視していたはずの映画はけれども、ひょいと軸足を移動させる。洗脳というテーゼが孕む宗教性、さらには哲学性へと一気に駆け上がっていく。ところが、作品はまったく内省的にはならない。難解さも前衛性もない。依然として痛快なまま、というより、痛快さがさらに加速する。ギアチェンジ不要の、ブレーキ無視のスピードアップ。中盤で物語の救世主のように現れた祈祷師、そして、作品全体を守護天使のように見守っていた謎の女が、わたしたちの思いもよらぬ末路を辿るまで、まったく目が離せない。我を忘れさせるその速度と力強さ。面白さにひれ伏すとまさにこのことだ。多くの見落としがあったことに気づいたときはもう遅い。だが、同時にそれは快感でもある。ここが、この映画の物凄い点だ。言ってみればきわめて絶望的な幕切れであるにもかかわらず、観客はほとんど絶望を感じない。そのとき、初めて、もうひとつの真理を発見する。
わたしたちは、かくも無責任な存在だったのか!
ある者は、映画にたぶらかされたと言うだろう。手の込んだミスリードに騙されたと騒ぐだろう。あるいは、これは洗脳についての映画ではない、映画による洗脳だ、と斬って捨てるかもしれない。だが、そうした反応のすべては鏡像のように観客に跳ね返ってくる。
「答え」のないアートは、類まれなる娯楽性で疾走した。そうして、快感の果てに、喪失という名の果実をもたらす。まさに禁断の美味しさである。