今年日本映画界をも席巻して大きな話題になった2本の韓国映画がある。それは『哭声/コクソン』(ナ・ホンジン監督)と、『新感染 ファイナル・エクスプレス』(ヨン・サンホ監督)だ。いずれも、映画のジャンルを問われれば、オカルトやゾンビ映画に属するだろう。しかしそう思って劇場に足を運ぶなら、上映時間の間、何度も心地よく裏切られるはずだ。いずれも、予想もつかない展開に観る者をのめり込ませる娯楽性を実装しているが、作品の基軸には世界共通の世相と社会に問いかける深く切実な問い、そして人間ドラマがある。ライトな映画ファンからシネフィルまでさまざまな観客を魅了した2017年話題の映画2本について、映画ライターの相田冬二が解説する。
本来、アートと娯楽は常に拮抗しているものだ。突き抜けたアートは娯楽たりえるし、娯楽は極めればアートと化す。逆に言えば、アートと娯楽がデッドヒートを繰り広げていない表現は、つまらない。アートが「アート」というジャンルに自閉していては、娯楽が「娯楽」というカテゴライズに安穏していては、オーディエンスの胸を打つスリリングな作品は生まれない。特定の層を満足させることだけに邁進する行為はもはや表現ではない。ただの商品づくりであり、単なるビジネスだ。危険を冒さず、安全圏内で、極力誤解されないように振る舞うことからは当然ながら、ときめきは生まれない。なぜなら、「賭け」の心意気が不在だからである。わたしたちは、身を挺した表現にこそ、揺さぶられる。カラダを張った蛮勇にこそ、キャッチザハートされる。
2017年に公開された2本の映画は、アートの底力、娯楽の底力を体感させてくれた。いずれもが韓国映画であったことはおそらく偶然ではないだろうが、ここではその事実に特化するのではなく、娯楽に拮抗するアートのふてぶてしさ、アートと死闘を展開する娯楽の覚悟、その矜持と力学に目を向けて綴ってみたい。
俳優・國村準が韓国を代表する映画賞で
助演男優賞と人気スター賞をW受賞
まずは、ナ・ホンジン監督の『哭声/コクソン』。こちらはおそらくアートに分類されるだろう。なぜなら、明確なカタルシスをもたらす「答え」が用意されてはいないからである。観客は、能動的に思考するしかない。いま、観終えたばかりの物語は何だったのかについて。だが、映画がそれを強制するわけではない。そうせざるを得なくなるのだ。ある者は饒舌になるだろう。ある者は沈黙するだろう。だが、饒舌も沈黙も、実は自発的な行為なのだ。そのことを気づかせるこの映画には破格のパワーがみなぎっている。
コクソンとは実在の村の名前である。そこで世にも陰惨な事件が起きた、とする本作のフィクションの構造は一体、どのような挑発と受け取れば良いのだろう。現実に起きた事件がモデルになっているわけではない。また、ベストセラーとなった原作があるわけでもない。これは監督のオリジナル脚本である。にもかかわらず、カモフラージュなしで、実在の地名がタイトルに冠される。躊躇がない。面白ければ、すべて許される。監督の独断が突っ走っているわけではない。本国では大ヒットを記録した。のみならず、韓国を代表する映画賞・青龍映画賞では國村準が助演男優賞と人気スター賞をW受賞した他、監督賞、音楽賞、編集賞の計5冠に輝いた。日本人のみならず、韓国人以外の者が同映画賞に輝いたのは史上初の快挙だという。面白ければ、あらゆることが突破される。これを痛快と呼ばずして、何を痛快と呼べばのいいか。