Dec 09, 2022 column

監督アレックス・ガーランドが放つ"クセがツヨい"フォーク・ホラー『MEN 同じ顔の男たち』

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鮮烈な赤と緑の交錯

緑の男たちは、何に痛みを感じ、何に怒りを滲ませ、何を叫んでいるのか。アレックス・ガーランドはグリーンマンという存在を、トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)の発露として見出した。

近年、#MeToo運動をテーマにした映画が数多く製作されている。ハーヴェイ・ワインスタイン事件を赤裸々に描いた『スキャンダル』(19) 、強烈な筆致で性暴力を告発する『プロミシング・ヤング・ウーマン』(20)、凝り固まったジェンダーロールを寓話として描いた『ドント・ウォーリー・ダーリン』(22)。だがアレックス・ガーランドはこの運動が始まるよりもはるか前から、大きな関心を抱いていた。

「#MeToo は虫眼鏡のように多くの人の関心を集めましたが、私の記憶ではその運動以前から関心を持っていましたし、意識は高かったと思います。私の両親が70年代に話していたようなことでしたから」ーアレックス・ガーランド
(出典:bfi.org.uk)

例えば、カントリーハウスに生い茂った林檎をハーパーが噛り、それを管理人が冗談交じりに指摘する序盤のシーン。それは旧約聖書の『創世記』で、エデンの園にある禁断の果実(=林檎)をイヴが食べてしまったことに対する、一方的な異議申し立てだ。この世界の理(ことわり)を崩壊させたのは女性であるという、男性優位主義に基づいた独善的思想。その歪みが、物語を、映画を、世界そのものを変容させていく。

もしくは、廃道に足を踏み入れたハーパーが発声すると、音が反響してメロディアスなエコーになるシーン。エコー(エーコー)はギリシア語で“木霊”を表し、ギリシア神話に登場する森の精霊を意味する。ハーパーの存在を知ったグリーンマンは実体化し、変態全裸男(こう書くと物凄くバカっぽいが、実際にそうなのだから仕方がない)となって、彼女を執拗につけ回す。この田舎町自体が、異邦人としてのたった一人の女性を心理的に攻撃する、トキシック・マスキュリニティの暗喩として機能している。

また本作は、いわゆるガスライティング・スリラーの系譜に連なる作品と言っていいだろう。ガスライティングとは、相手を支配する心理的虐待のこと。パトリック・ハミルトンの戯曲を名匠ジョージ・キューカーが映画化し、イングリッド・バーグマンが主演した『ガス燈』(44)が、その由来。ガス燈が灯る霧がかったロンドンを舞台に、夫から精神的に追い込まれていく妻の姿が描かれていた。

だからと言って、アレックス・ガーランドはこれ見よがしにガス燈を灯らせたり、霧むせぶ光景を見せたりはしない。むしろ彼がこの映画にかけた魔法は、赤と緑というシンプルな配色である。時折フラッシュバックされるロンドンのアパートのシーンは、画面が赤に染まり、不穏な影を撒き散らす。対照的に田舎町は美しい緑に溢れ、ハーパーの心を癒していく。だが、彼女が借りたカントリーハウスに鮮烈な赤が塗りたくられていることに象徴されるように(まるで『シャイニング』(80)に登場するオーバールックホテルのようだ)、緑の世界も次第に赤の世界へと侵食されていくのだ。

鮮烈な赤と緑の交錯。このヴィヴィッドな色彩設計が、いかにもビジュアリストとしてのアレックス・ガーランドの面目躍如なり。