極大なるものと極小なるもの
M・ナイト・シャマランは、市井の人々に焦点を当てる。それも、コミュニティの最小単位である“家族”にだ。『サイン』では、主人公グラハムとその弟、2人の子供たち。『アフター・アース』(2013)では、主人公の少年キタイの父と母、姉(しかも、ウィル・スミスとジェイデン・スミスのリアル親子が親子役で出演)。『ヴィジット』(2015)は、姉弟が祖父母の家を訪れる話だった。
もしくは、疑似家族のようなパターンもある。『ハプニング』では、主人公エリオットとその妻が、友人の娘ジュリアンと本当の親子のような関係を結んでいくプロセスが描かれていたし、『ヴィレッジ』では、深い森の中に棲まう小さな村の住人たちが、大家族のような共同体を形成していた。
そしてこの『ノック 終末の訪問者』には、アンドリュー&エリックの同性愛者カップルと中国系の少女ウェンという、映画のなかのセリフを引用するなら「パパが2人いる」家族が登場する。血の繋がった家族以上に、3人の絆は強い。だからこそ彼らは、セーヴ・ザ・ワールドの運命を握る者として選ばれたのだろう。
これまでもM・ナイト・シャマランの手がけた映画では、世界の終焉に佇む家族(もしくは疑似家族)の目を通して、地球規模のクライシスが描かれてきた。彼は一貫して、世界最小単位のコミュニティの視点から、世界最大級スケールの終末論が描いてきたのだ。本作ではそれがより深化して、家族が下す選択がそのまま世界の存亡に関わる、というトンデモ設定にまでイキきっている。極大なるものと極小なるものを対照せしめ、相関させることで、ストーリーがドラマティックに高揚するのだ。この作劇は、彼が新しいフェーズに到達したことを高らかに宣言するものだろう。
“極大なるものと極小なるもの”は、映像的にも補完されている。例えば、オープニングでレナードとウェンが森で語り合うシーン。シャマランは、2人の会話をクローズアップでカットバックさせていく演出を採用しているが、大男のレナードを7歳の少女ウェンが見上げる主観ショットをインサートさせることで、彼の巨大さがより際立つ効果を狙っている。2人が握手するカットも同様。レナードの巨大な手は、小さなウェンの手を覆い隠してしまうほどだ。
そう考えると、ウェンが森でバッタを捕まえていることは非常に暗示的。世界の災厄という“極大なるもの”は、家族という“極小なるもの”によって運命を託されるが、ビンに入ったバッタは“さらに極小なるもの”として、選択することも叶わず行く末を見届けるしかない。この世界には我々の知らない理が存在していて、人類はただそれに従うしか無いという、ある種の運命論がこの映画を覆い尽くしている。