4月7日、ついに公開されたM・ナイト・シャマラン監督最新作『ノック 終末の訪問者』。本作は突然現れた謎の訪問者によって、究極の選択を迫られたある一家を主軸に家族愛と恐怖を描いたスリラーだ。『シックス・センス』をはじめ、いい意味で我々を裏切ってきた奇才・シャマラン監督は、本作でどう観客を魅了してくれるのだろうか。
映画における山小屋という舞台
いま、あなたが観ている映画の舞台がキャビン(山小屋)だったとする。都会の喧騒から離れ、携帯の電波も届かないような人里離れた場所で、主人公たちが週末を過ごそうとしている。断言してもいいが、そこには奇怪な訪問者が登場することだろう。シリアル・キラーだったり、悪霊だったり、ゾンビだったり、血に飢えた悪鬼が現れて、主人公たちを恐怖のどん底に叩き込むことだろう。映画におけるキャビンとは、常に災厄を招き入れる呪われた場所なのである。
M・ナイト・シャマランの最新作『ノック 終末の訪問者』(2023)の原題は、『Knock at the Cabin』。タイトルからして、「キャビンに奇怪な訪問者がやってくる系ホラー」の系譜に連なることは明白だ。
アンドリュー(ジョナサン・グロフ)とエリック(ベン・オルドリッジ)、そして養女のウェン(クリステン・クイ)。彼らが休暇を楽しんでいるキャビンに、突然レナード(デイヴ・バウティスタ)、レドモンド(ルパート・グリント)、エイドリアン(ニキ・アムカ=バード)、サブリナ(アビー・クイン)ら4人の訪問者が現れ、ドアを激しく叩く。殺戮のパーティが始まる!…と、観客は身を構えることだろう。
だが、そこはM・ナイト・シャマラン。映画界随一の鬼才が、単純にキャビン系ホラーのフォーマットをなぞっただけの作品に仕立てるはずがない。訪問者たちは家族に暴力を振るうのではなく、あまりにも理不尽すぎる選択を迫る。
「われわれは世界の終わりを防ぐためにやってきた。
世界が終わるかどうかは君たちにかかっている。
家族3人から、犠牲になる者を選んでくれ。
辛い決断だが、選んだ者を殺さなくてはならない。
でなければ、70億を超える人類は、死滅する」
果たして彼らはカルトな妄想にハマった狂人なのか、世界を救うための真実を伝える伝道者なのか。『ノック 終末の訪問者』は、キャビンという密室のなかで繰り広げられる、人類の存亡を描いた黙示録なのだ。
シャマランが紡ぐ映画のカラー
M・ナイト・シャマランといえば、自らオリジナル脚本を書き、監督、プロデュース、そして出演までしてしまう才人。そんな彼のフィルモグラフィーのなかでは珍しく、本作には原作がある。ポール・トレンブレイが2018年に発表したベストセラー小説、「終末の訪問者」(The Cabin at the End of the World)だ。
この小説をもとに、スティーヴ・デズモンド&マイケル・シャーマンのコンビがシナリオを執筆。いまだ映画化されていない優秀な脚本として“ブラックリスト”入りし、それにシャマランが目をつけた。元々はプロデュースのみ手がける予定だったが、最終的に自分自身で演出することを決意。結果的に本作は、オリジナル作品と見紛うばかりに“シャマラン色”に染め上げられた一編となった。
思えば彼が2002年に発表した『サイン』は、“宇宙人の侵略”という地球規模のクライシスを、片田舎の農場で暮らす元牧師グラハム(メル・ギブソン)を通じて描いた物語だった。さらに2008年の『ハプニング』では、突然人々が自殺を始めるという人類滅亡の危機を、高校教師エリオット(マーク・ウォールバーグ)を通じて描いた。
どんなにスケールがデカかろうと、シャマランは『インデペンデンス・デイ』のように政府の高官を主人公に据えたりはしない。あくまで市井の人々に焦点を当てて、物語を紡いでいく。