失われつつある“サロン映画祭”としての存在感
一般的によく知られる映画祭というのは、カンヌ、ベルリン、ベネチアなどのいわゆる“三大映画祭”であり、華やかにレッドカーペットがあるものを連想されるかと思うが、そんな側面以上に、元々は映画を通して文化や社会、政治が結びつくような社交の場として発展してきた。昨今ではメディア向けの華やかな部分だけが大々的に脚光を浴びている映画祭が増えているが、1932年にスタートしたイタリアのベネチア国際映画祭は世界で最も歴史が長く、第2次世界大戦中にファシズム政権に利用され、「ムッソリーニ杯」が設けられた時期もあったように、自国の政治に利用されることも多々あった。ちなみに、今では“世界一の映画祭”と言われるカンヌ国際映画祭も、このベネチア国際映画祭が政治の影響にまみれた映画祭であったために、その反動もあり“自由の象徴”として設立され、今までに数多くの社会的事件やスキャンダルがカンヌ国際映画祭の期間中に勃発していた。(詳しくは、カンヌ国際映画祭の関連記事で後日ご紹介。)このように、映画祭はもともと“映画”という総合芸術を通して、海外と繋がり、文化や経済が発展することに一役買っていることも多く、実はウディネもその古典的な映画祭の成り立ちをベースに発展した映画祭の一つである。

“ウディネで映画のラインアップを見ると、今のアジアの映画業界の栄枯と各国&地域の経済状況が一目でわかる”と言われているが、まさにウディネで上映される映画は、その年の各国&地域の文化発展や政治情勢が透けて見える。そういった点では、今年は日本映画が最多数の出品を誇り、韓国映画の勢いがピタッと身を潜め(映画製作以上にデジタル配信向けのテレビシリーズの量産に傾いている)、東南アジアは他国との合作映画が活発に製作され、べトナム映画の勢いは韓国資本などの力を借りて徐々に拡大しており‥‥、というのが、今年のウディネのアジア・トレンドであり、この傾向が翌月に開催されるカンヌ国際映画祭にも多少なりとも反映している。ウディネは、参加するゲストたちが近隣諸国に細心の注意と最大のリスペクトを払いながらも、全ての映画人たちが同じ空間で映画を観て、同じホテルに泊まり、同じ食事をとって、連日連夜、映画の話をする、というサロン的構成は映画祭の設立当初から変わらずに今も存在している、最も“サロン映画祭”の象徴として成長してきたと言っても過言ではない。
