Aug 09, 2024 column

『ブルーピリオド』いつだって夢見る未来には蒼い眩しさがある

A A
SHARE

あなたが見る渋谷の朝は青いのか?

八虎が美術の道を志したのは、選択授業で履修した美術の課題「私の好きな風景」で、“早朝の青い渋谷”を描き、友人に褒められ共感されたことがきっかけだった。これが「ブルーピリオド」の始まりであり、屈指の名シーンでもある。

終わりのような始まりで、猥雑だけど静寂に包まれている。それでいて、どこか満たされきっていない名残惜しさ。マンガを読んだとき、かつて自分が経験した、ちょっと足が軽くなった空の色を想像していた。

いまはもうセンター街でオールして〆のラーメンを食べられる年齢ではないけれど、あの頃見た渋谷の朝の青さがスクリーンに映し出され、八虎と年代だった頃の自分を思い出した。ここで一気に引き込まれた。

きっと誰もが見ているもの、想像しているものは違う。けれど、同じ感覚を共有する。こういった感覚の映像描写にスタッフが、俳優陣が挑んだことが素晴らしい。

“絵を描く”というアクションを映画で魅せる工夫は難しかったように思う。しかし、役者が実際に描くアナログの手触り感と、VFXによるデジタル演出を組み合わせた絵画表現は、いわゆるゾーンに入った感覚、原作マンガでいう、脳汁が出る感覚のそれをよく表している。

今を生きているキャラクターに

映画『ブルーピリオド』には、多くの原作ファンが期待と不安を寄せていることだろう。
マンガの実写映画化において、キャラクターと俳優のイメージや年齢、エピソードの選択などによって、想像とのギャップを受け入れられない場合もある。しかし、そんな上澄みだけを掬ったような目線で観てはもったいないと思う。

夜遊びもするが成績優秀で、空気を読んで生きるのが上手なくせに、物足りなさを感じている男子高校生。これが主人公の基本設定だ。

この本質をもとに映画を観ると、主演の眞栄田郷敦は「どこか壁がある」「何でも持ってる」「苦手」だと思われる存在感を匂わせ、マンガの八虎と比べると空虚な目をした不良っぽさが際立った演技をしている。だからこそ、何もない状態から美術にのめり込む姿が観客を魅了する。

女性的な容姿を好むユカちゃんは、綺麗な顔立ちゆえにマンガで描くと男性感が薄いが、美しい女装をした高橋文哉が演じることで、彼の自由さと葛藤する姿のリアルさが増す。

普段からデジタルイラストを描いていた板垣李光人が世田介を演じると、板垣のイメージに引っ張られ、孤高のアーティスト像が生まれ、世田介の神経質な変人感も目立ってくる。

役者によって本質的にキャラクター性を増したものがあれば、登場シーンが少なくなったにも関わらず、主要人物たちとの関係性を明確にしたものもある。

例えば、美術予備校のメンバーは、エピソードを削いでいくことで、同じ志を持つ者たちが急速に近づく様が見てとれる。

とりわけ八虎に、気づきときっかけを与えた美術部顧問・佐伯(薬師丸ひろ子)、指導し成長させた美術学校講師・大葉(江口のりこ)、将来への心配と応援を授けた母・真理恵(石田ひかり)。この3人の母性の役割を分けたことで、物語がすっきりとわかりやすくなった。

本作は、マンガのキャラクター、エピソードを観客のリアルな世界へ落とし込む方法が、全てを忠実に再現するだけではないことを教えてくれる。