Jul 30, 2020 column

06: プレイステーション米国ローンチの混乱と成功

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業界のプロフェッショナルに、様々な視点でエンターテインメント分野の話を語っていただく本企画。日本のゲーム・エンターテインメント黎明期から活躍し現在も最前線で業務に携わる、エンタメ・ストラテジストの内海州史が、ゲーム業界を中心とする、デジタル・エンターテインメント業界の歴史を語ります。

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様々な混乱と達成を乗り越えて、1995年9月9日、米国でプレイステーションがローンチされます。ハードの値段は『リッジレーサー』がバンドル(セット販売)されて$299 。『リッジレーサー』のバンドルについては自分がナムコに交渉、契約したこともあり、いろいろと思い出深いエピソードがあります。プレイステーションの値段付けも大変で、最後まで$299でいくか$349でいくか何度も大議論になった議題でした。

当時は$1が80円台と記録的な円高のタイミングもあり、$299ではいくら売れても大きな赤字になってしまいます。ゲームプラットフォームでは最初にある程度の数が売れないと、その後ソフトも数が出なくなるということもあり、将来を見越した勢いをとるか、確実なビジネスの基盤をつくっていくかという悩みでした。結果的には、$299で発売を決定。当然、初年度は大赤字となりましたが、値段に敏感な米国で、この値段のにしたことによりプレイステーションのビジネスが立ち上がったとも言えます。

発売当日、売り場を何か所か見に行くと、店の前には長い行列ができており、様々な人種の若者達が次々とハードとゲームを買っていくのを見てとてもうれしい気持ちでした。中には現金で買っている人も結構な数でいたのですが、後から聞くと、その人たちはおそらくクレジットカードを持っていない人たちだろうという事でした。

私たちは、$299でも結構高い値段だということで、プレイステーションはある程度お金に余裕がある人達しか買わないだろうという考えだったのですが、クレジットカードを持てない若者たちが、お金をかき集めて嬉しそうに買っていくのをみて安易な仮説であったと実感しました。

その当時、私はコーポレートの仕事や、サードパーティの仕事をこなしながら、日本のSCEが作った流通をたばねる仕組みをアメリカでも作れないかと思案していました。しかし、それはアメリカでは独禁法に抵触するということで早々と断念。代わりに日本の市場で数多く作られているプレイステーション向けの面白いタイトルを米国向けに展開できないものかと考え、日本のタイトルをローカリゼーションして買い付けていく部門を作ったのです。

『パラッパラッパー』『モータートゥーン』『クールボーダーズ』『闘神伝』など、日本の市場で売れているタイトルをアメリカ向けにするために、現地のプロデューサーや翻訳のメンバーを雇い、アメリカのお客様に商品を届ける体制を作ります。当時はこういう新しい事を思い立ったら、自分が動きさえすれば実行できる環境だったのです。