ペドロ・アルモドバルの長編デビュー作『ペピ、ルシ、ボンとその他大勢の娘たち』(1980) に出演したスペインの歌手のアラスカは、どんな演技ができるかよりも、ペドロ・アルモドバル作品に出演するには、どんな服を持っているかが重要だったと語っている。ペドロ・アルモドバルは衣装やインテリアのデザイン、色彩によって映画に命を吹き込んでいく。かつてビリー・ワイルダーに何があってもハリウッドには行くなと忠告されたペドロ・アルモドバル。ついにアメリカで撮影された初めての英語長編となる『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』で、ペドロ・アルモドバルの美学は人生の深み、パフォーマンスとしての人生の悲喜をより浮かび上がらせることに成功している。無機質な空間であるはずの病室は秋色の壁紙で彩られている。人生の秋。末期がんのマーサは死に向かっている。友人のイングリッドが隣でそれを見守る。ティルダ・スウィントンとジュリアン・ムーアは、ペドロ・アルモドバルに彩られたステージの上で、静かなタンゴを踊るように言葉を紡いでいく。永遠の眠りに落ちるその日まで。そして死は力強く肯定的な色彩によって演出されていく。この傑作は生きることへの品格と情熱が描かれた映画なのだ。
色彩の白熱化、死を演出する
末期がんのマーサ(ティルダ・スウィントン)は黄色いスーツを着る。真っ赤なリップを塗る。マーサは死を演出する。死を前にして着飾る。ヴィンテージのセリーヌやボッテガ・ヴェネタのアイテム。モダニズム建築。壁に飾られたエドワード・ホッパーの絵。アントニオ・ロペス・ガルシアによる薔薇のスケッチ。色とりどりでフレッシュな果実。そして降り注ぐ陽の光。マーサは凛とした姿勢でこの世を去ろうとしている。『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』は尊厳死に関する作品だが、むしろこの映画には生きること、もっと言えば、生き方そのものへの情熱が描かれている。かつて戦場ジャーナリストだったマーサは、歩んできた人生のスピリット、その終わりを色彩や装飾によって表現している。そしてペドロ・アルモドバルの映画において、コスチュームやインテリアの色彩は沈黙の言語であり、生命の脈動そのものに他ならない。衰えてゆくマーサの肉体は、色彩の強さによって白熱する。そして死という蒸発へ向かっていく。
自分が死ぬときに隣の部屋にいてほしい。最後の日々を共に過ごしてほしい。マーサは再会したばかりのかつての親友イングリッド(ジュリアン・ムーア)に無理なお願いをする。マーサの望みを聞いたイングリッドは当惑する。恐怖を覚える。ここに独創的なサスペンスが生まれる。マーサは自分の望みが自己中心的であることを充分に理解している。しかしマーサの家を出るときイングリッドの運命はほとんど決まっていたように思える。ブラックのシャツを着たマーサとワインレッドのコートを着たイングリッド。イングリッドは両手を広げてマーサを迎え入れる。美しい切り花が描かれた壁紙を背景に、永遠の友情を確かめ合うようにハグをする二人。ペドロ・アルモドバルの作家の刻印といえる色彩の甘美さが二人を運命的に引き寄せている。
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本作は屋内のシーンに多くの時間が割かれている。マーサは胸に秘めていた昔話をイングリッドに聞かせる。イングリッドはマーサの話を聞く優れた聞き手であり観察者となる。イングリッドは、いわばこの映画の観客と一緒にマーサの言葉や挙動、決意や衰弱を固唾を呑んで見つめている。物語の語り手としてのマーサ。物語を編集、紡ぐ者としてのイングリッド。イングリッドが作家であることに大きな広がりがある。二人の対話がやがて“作家”同士の対話のように思えてくる。言葉は美しい室内楽のように響く。イングリッドに昔話をすることでマーサは自分が何者なのかを知っていく。死という概念自体を受け入れられなかったイングリッドは、マーサと向き合うことで変化していく。イングリッドはマーサの意思を尊重する。隣の部屋から目を背けてはいけない。変化を恐れてはいけない。ニューヨーク映画祭で本作が上映された際、登壇したティルダ・スウィントンは“隣の部屋”をシリアやベイルート、ガザやエルサレムに喩えている。「愛する人を亡くすのは不運な人だけではありません。紛争の渦中に置かれるのは不運な人だけではありません。しかし、目を背けてはならないのです。」
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