柄本佑・時生兄弟が自主上演する舞台を、父・柄本明が演出すると聞き、映画・ドキュメンタリーの名撮影監督・山崎裕が、その稽古場にカメラを持ち込んだ。
「佑くんや時生くんより、柄本明さんの百面相を撮っている感じだった」と、監督を惹きつけた柄本明の表情と身体が、そら恐ろしいほどの迫力で描かれたドキュメンタリーだ。何を思うとあのような百面相になるのか。恐る恐る聞いてみた。
ドキュメンタリー映画『柄本家のゴドー』は、稽古初日の様子から始まる。難解さの極みと言うべきノーベル賞作家サミュエル・ベケットの代表作『ゴドーを待ちながら』。その冒頭のせりふのやりとりを二人が始めると、柄本明は、自身もこの作品を演じた経験があり、佑・時生が2014年にこの作品を初演した際の舞台も観ているというのに、まるで初めて珍しいものを見るかのように、目を丸くして二人を凝視した。やがてその表情は崩れてゆき、ついには声を上げて大爆笑し始める。が、周囲は誰も笑っていない。笑える要素があるとは思えない場面だから当然だ。むしろ稽古場が緊迫感に満たされているのが感じられ、スクリーン越しにそれを見るこちらにも、戦慄が走る。
「たぶんその時に笑ったのは、 たとえばいまこうやって取材されてる状態だって、笑えるといえば笑えるじゃないですか。見方によってはお葬式だって笑える対象になるし、結婚式だって馬鹿馬鹿しいものに見えるでしょう。そういう目線ですね。『ああ、人間というのはかわいそうなもんだなあ』という感じかなぁ。まして自分が父親で、息子二人がわけのわからない『ゴドー〜』をやることになったのを見てるんだから、もう笑える要素が、ふんだんにあるじゃないですか。
俳優にとっては、笑われるというのは、たぶん力になるでしょうね、うん。だから少しでも笑える隙があったら、笑いたいと思いますね。ものすごく馬鹿にして、笑ってあげる」
うぅむ……それは思いやりなのか、意地悪なのか、判別がつかない。笑ってほしい場面で笑ってもらえたら力になるだろうけれど、そうではない場面での笑い声は、潰しにかかっているのかと訝られても、不思議でない気がする。
「見られるというのは残酷なことでしょう?」
「どうなんだろうなぁ。笑われるつもりがあろうとなかろうと、見られるということは、かなり残酷なことでしょう。そういう職業……、いや<職業>っていう言葉はつらいですよね。ついこないだ歯が欠けたので歯医者さんに行って、職業欄に何て書こうか迷って<自営業>と書きましたよ。役者なんかやってると、『ああ、馬鹿にされるんだなぁ』という感じが、ものすごくするし、実際、そう見られる仕事なんじゃないですかね。僕も、長いことやっちゃってますけども、どこかでそれを『嫌だな』と言う自分がいるんですよ。(俳優は)みんなそうじゃないかと思うんですけどね」
見られる残酷さを甘受するのが、俳優というもの。この取材の後、昨年『柄本家のゴドー』が初公開された座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルで、兄弟がアフタートークで語っている映像を見たら、「(父の)笑い声が聞こえてきたら、稽古になっているのかな(と思える)」(佑)、「(父が笑わず)シーンとしていると、むしろ『どうしよう、どうしよう、どうしよう(と焦る)」(時生)と話していて、驚くと同時に納得もした。笑われるのは攻撃ではなく、むしろ脈がある証。見守られているサインというわけだ。息子と父、というより二人の俳優と演出家の間では、それは確認するまでもない了解事項だったのだ。