Oct 06, 2021 interview

デヴィッド・ボウイのブレイク前夜の苦悩と兄との友情を描く『スターダスト』~ガブリエル・レンジ監督に聞く

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1970年代世界的スターになっていくデヴィッド・ボウイの、これまでほとんど知られていなかったスターになる以前の時代にフォーカスした映画『スターダスト』がいよいよ2021年10月8日から日本全国でロードショー公開される。監督したガブリエル・レンジにインタビューする機会を得た。監督インタビューからこの作品の魅力を探ってみる。 

ブレイク前夜

1970年代に入りイギリスからアメリカ、そして、世界的なスターになっていくアーティスト、デヴィッド・ボウイ。ボウイが1970年アメリカのマーキュリー・レコーズから出した2作目『世界を売った男(ザ・マン・フー・ソールド・ザ・ワールド)』を全米でプロモーションするために、マーキュリーの宣伝マン(パブリシスト)、ロン・オバーマンと全米を回る。ところが、その彼は、ボウイの才能には惚れ込んでいたものの仕事はずさんで、ボウイの入国に必要なビザの申請などやるべき仕事をまったくしていなかったためライブなどができなかった。

一方、母国では、ボウイの兄テリーが精神疾患とされ、父親がその兄を精神病院にいれてしまう。デヴィッドはその兄から音楽を教わり、恩義を感じていたので、何度か見舞いに行くが、その兄の壊れ方、父親の兄への扱い方などに大きな不満を持つ。

しかし、この時期、デヴィッドは、兄の姿や自分自身のことを見つめ直し、徐々に自身のオルターエゴ(分身)である「スターダスト」を生み出すことをおぼろげに思い始める。そして次作のコンセプトが出来上がっていき、それが『ジギー・スターダスト』のアルバムに結実していく、という物語だ。

デヴィッド・ボウイのブレイク前夜の苦悩と兄との友情を描く『スターダスト』~ガブリエル・レンジ監督に聞く

当初の脚本からの方向転換

一本の映画が完成に至るまでには、様々な紆余曲折がある。多くの人間が製作にかかわることで方向性が変わることもあれば、ビジネス面の条件で当初のストーリーラインが変わることもある。登場人物を増やせと言われたり、キャラクターを変えろと言われることもあるだろう。しかも、このデヴィッド・ボウイのような長い歴史を持ち様々なストーリーがあるアイコンとなると、そのアーティストのどの時代にフォーカスして物語を紡ぐかは監督次第になってくる。監督が10人いれば10通りのデヴィッド・ボウイ物語ができる。実はこの作品を作ったレンジ監督はボウイのレコードはすべて揃え、伝記本なども読破してきた当初別の構想を持っていた。

−− 一人のかなり歴史のあるアーティストの映画作品を作るとなると長いキャリアのどこかにフォーカスしなければなりません。今回の場合、最初からこのデビュー前にフォーカスしようと思っていたのでしょうか?

レンジ いや、実は、元々僕はデヴィッド・ボウイとイギー・ポップが西ベルリンのアパートに一緒に住んでいた1977年の出来事にフォーカスして脚本を書いていたんだ。ところが、製作に入ろうとしたときに音楽を使う権利などが複雑で、事実上使えないことがわかった。そんな頃、フィルム・エージェントが、別の映画プロデューサーがデヴィッド・ボウイの映画を撮りたいと動いているから、一度会ってみるかと言ってきたんで、会うことにした。すると、彼らはブレイク前ボウイが初めてアメリカにやってくる時期にフォーカスした脚本をクリス・ベルが書いて企画を進めていた。そこで僕もそれに加わって、一緒に脚本をさらに発展させて作ることにしたんだ。その脚本(今回の映画の脚本)では、ボウイが精神的な感情の動きを描いていて、さらに、デヴィッドと父、デヴィッドと兄との関係などを書きこむことにした。

この映画『スターダスト』は、1971年発表のアルバム『ジギー・スターダスト』がブレイクする前夜までを描くために、その後のデヴィッドの大ヒット曲などはいずれも出てこない。ここで流れるのはイギリスのロック・グループ、ヤードバーズの「アイ・ウィッシュ・ユー・ウド」とジャック・ブレルの「マイ・デス」のカヴァーをボウイ本人がやる音源くらいだ。

デヴィッド・ボウイのブレイク前夜の苦悩と兄との友情を描く『スターダスト』~ガブリエル・レンジ監督に聞く

−−やはり、デヴィッド・ボウイ・エステート(遺産管理団体)の許諾はむずかしかったわけですね。では、もし、エステートがボウイのいわゆる有名楽曲などを含めた使用を許可してくれたら、違ったストーリーの映画を作ることになったでしょうか?

レンジ ははは、どうだろう。いや、(有名楽曲の許諾が取れたとしても)この映画を撮りたかった。いや、正直に言うと、どっちも作りたかったな(笑)。もちろんこの映画を作り始める当初、音楽の権利に関していろいろとやりあわなければならないことはわかっていた。有名ミュージシャンの映画を作るときに、そのミュージシャンの楽曲が使えないというのは議論の余地が出てくる。だが、それらの楽曲が使えないということで、逆に(表現の)自由が得られたということも言える。それは、もしデヴィッドの全曲を使えたら、たぶん、音楽主体の映画になったと思う。そして俳優がその曲を演じる。そうなると、その人物が持つ精神的な深いストーリーよりも、音楽、その楽曲についての映画になっただろう。

個人的には、そうだな、フレディー・マーキュリーのライヴを見たいと思ったときに、(俳優が演じるのではなく)彼が『ライブエイド』で歌う(実際の)姿を見たいと思う。結局、それはユーチューブで見られるからね。その実際のパフォーマンスがすごいからだ。(笑) もちろん映画『ボヘミアン・ラプソディー』、そしてラミ・マレック(映画上でフレディー・マーキュリーを演じた俳優)は素晴らしい仕事をした。ただ僕は本物のアーティストが本物の演奏をするところを見たいタイプの男なんだ。だから、そのアーティストの楽曲を使えないということで、逆にデヴィッド・ボウイの精神的な内面について描きたいと思った。俳優が口パクで(ボウイの)曲を歌う映画ではなくてね。僕はボウイの心の旅路を描き出したかったんだ。